元日はいつでも「今年は大いに意義のある年だ」とか、「発展する年だ」というようなことをよく言いますが、いま私が言う「今年はよい年だ」ということは、お座なり的なことでなくて本当に今年は大きな意味があるのです。それは昭和二十年に終戦になりましたが、数字で解釈しますと「二十」という字は、文字でも数字でもそうですが、非常に意味があるのです。これは「天地の結び」あるいは「霊体の結び」というようなわけで、われわれのほうでいう伊都能売<いづのめ>です。ですから終戦になったということは、霊体が結ぶということになるのです。ですから大いに意味があります。いままでにも昔から二十年という数字はたくさんありましたが、昭和というこの年号の文字につながる二十ということに、大いに意味があるのです。昭和の「昭」という文字は日偏に召すという字ですが、「召す」というのは神道のほうでいう「しろしめす」ということです。「統一」とか「治める」という意味です。よく「天照大御神がこの土をしろしめし給う」ということがあります。それから「和」というのは、大和<やまと>という意味ですが、「和」というのはやはり「世界」という大きなことの形です。ですから「日がしろしめす世界」ということです。そうするとその日というのは太陽です。日という字は、○<マル>にヽ<チョン>ですが、この象形文字です。ですから日がしろしめす順序、段階として霊体が結ばれるというのが昭和二十年です。それでそういう意味から終戦になったのです。と同時に信教の自由ということになって、最初は観音教団ですが、とにかく救世教として宗教的に活動ができるということになったのです。神様のほうの意味からいうとなかなか深いのです。それがだんだん進んで行って、昭和二十五、六、七というと、これはミロクですが、ちょうど二十五年の五月に私が引っ張られていままで裁判が続いて、ようやく暮れの二十四日、私の誕生日の翌日にああしてすんだわけです。それに執行猶予ということになれば、もうおしまいになったのと同じことなのだそうです。それに対してなにも拘束されるようなことはないので、無罪と同じ結果になるわけです。そこで二十五、六、七のミロクがああしてすんで、それは勿論経綸ですが、そうして今年が八ですから今年から開ける、ミロクの神業が開け始めるということになるのですから、その意味において今年からはたいへんに結構なことになるのです。その初めですから、われわれにとっては今年はたいへんにいい年なのです。今日の歌でも分かったでしょうが、久しぶりで今日の元日は朗らかな気持ちで祝うことができたのです。一昨年の元日はたいしてありませんが、その前からずいぶんもやもやしていたのです。これは霊的にも大いに関係ありますが、ああいう大きな事件が起る前は非常に気持ちが悪いものです。やっぱり先方の霊が、霊といってもふつうの霊でなく黒雲みたいなものですが、それがとりまいているから気持ちが悪いのです。それで今日の元日はそういう点は少しもないので、晴れ晴れとした気持ちです。それで裁判の決まらないうちは非常に気持ちが悪いのです。ふつうの人と違う気持ちです。それは公判ですが、あのときは実に気持ちが悪いのです。これは地獄よりずっと悪いです。地獄のほうがよほどよいのです。地獄はとても酷い所ですが、公平なのです。悪いことをしたそれに相当した罪ですが、現界のほうはそうでなく不公平が第一番です。ですから地獄どころではありません。ああいう所を娑婆の地獄だと言いますが、とんでもない話です。霊界の地獄というのは、それは気持ちがよいものです。閻魔の庁といって、罪は罪で閻魔の帳に書き止めてあって、いささかも不公平はありません。それで公判などで、自分はどうということはなくて傍聴しているだけでも、実に気持ちが悪いのです。また何日に行ってその苦しみをしなければならないかと思うと、実に憂鬱になってしまいます。それが年中もやもやとひっかかっていたのです。しかしどうもしかたがないので我慢してましたが、それがなくなったということは、私としてはちょうど雲が晴れたと同じ気持ちなのです。ですから今日の歌にも最初にそう書いてありますが、そういうようなわけで今年から非常に気持ちよくやれるとともに、また仕事の具合もちょうどそういったような形になってきました。
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