〔 質問者 〕今度映画で、明主様の御姿とお声が世界に出ますことを思いますと、たいへんなことでございます。
【 明主様 】そうです。つまり世界的に第一歩を踏むわけです。
〔 質問者 〕本日は毎日新聞のプロデューサーの方も見えられております。
【 明主様 】そうですか。
〔 質問者 〕映画の主題は「東方の光」ということにいたしたいと思いますが、いかがでございましょうか。
【 明主様 】結構です。私は前から「東方の光」ということを言いたかったが、講和前はアメリカの人が誤解するといけないから言わなかったのです。それでこの間『栄光』に「東方の光」を出したのです。来年からは、ちょっとおもしろくなってくるわけです。アメリカで分かってきたらおもしろいです。それに早いです。
これからは映画というものは非常な役目をするのです。この間なにかの記事で見たとき、映画は芸術に入れるとか入れないということが出てましたが、私は今度書いてみようと思ってます。芸術では、映画が一番の芸術と思ってます。なぜかと言えば、映画くらいいろんな芸術的なものが入っているものはないのです。あれは総合芸術です。第一番に脚本(シナリオ)、それからプロデューサーがいろいろ企画を作っていくということ。それにちょうど適当するような俳優の選択。その俳優の技芸、それから場面は室内もあれば室外もあるし、本物を背景にする場合もあるし、セットを使う場合もあり、光線の採り具合、ロケでの景色の選択と、あらゆるものを採り入れてます。ほかの芸術ではいくつかに限られているが、映画というものは、世の中のあらゆるものを採り入れてます。それで一つの作品を作るのですから、このくらいすばらしい芸術はないと思ってます。だから芸術の王様です。それから写真の芸術があります。写真といっても絵画的のいろんなやり方です。監督でもそういった絵画的なところを現わす者は少ないです。しかし近ごろは、なかなかうまいのがあります。絵画的場面を作るのがうまいのは豊田四郎です。それから時代の構想とか、時代時代の雰囲気とか、色を出すということもピッタリすると、見ていても非常に効果があります。ところがどうかすると、チョンマゲが通る横に電信柱が見えたり、それから対話でも、作者が新しい扱い方でやって、言葉などでずいぶん変なことをやります。「僕は君を信ずる」と、チョンマゲ時代にそんなことは言いません。そうかと思うと、その時代の言葉を使ったりしてゴチャゴチャです。そういうことをキチンとすると、やはり評判も良くなるし、その監督も認められるのです。どうもそういう点には割合無関心です。そういった外連が非常に多いのです。日本映画は特に外連が多いのです。
〔 質問者 〕今度のメシヤ教の映画の場合の音楽は、雅楽は必要な要素でございましょうか。
【 明主様 】いけません。
〔 質問者 〕全部洋楽でいたしますのでございましょうか。
【 明主様 】そうです。雅楽というのは平安朝時代のものです。そうなると、こっちも衣冠束帯かなにかでやらなければならない。能楽とか雅楽をやるのは、別にそういったものを作らなければなりません。宗教のほうでは、そういうことはやりません。むしろもっとも新しくなければならないのです。だから建築でももっとも新しいところを狙ったのです。今度できる会館というのは、宗教建築ではおそらく世界にありません。宗教建築というと、昔の伽藍式とか、お宮式とか、ありますが、いくら伽藍式を立派に採り入れても、京都の本願寺以上のものはできません。あれを安っぽくしたくらいのものです。そういうものは造る必要がないのです。私はこの間「袴に支配される」ということを書いたのですが、そうすると二〇世紀を狙うよりも、むしろ二一世紀を狙うのが本当です。だから天理教などがやってますが、ああいう古いことは排斥したいくらいのものです。あれでは時代の進歩というものがありません。特に宗教ほど進歩のないものはないと思います。だから私は釈迦とかキリストということを、さかんに批評してますが、古い宗教で救えないということは、あたりまえです。いまの自動車の世の中に牛車に乗れというようなものです。それなら牛車に乗って町を歩いたらどうかということです。ただ歴史的の趣味として見るのはかまいませんが。