昭和二十七年五月十五日 『御教え集』九号(4)

四月一五日

御教え 広島、長崎の原子爆弾ですね。あれのお蔭話を書いて出させたんですが、七つばかり出てます。前にも言った通り原子爆弾の光線……あれはいわゆる熱ですが、非常に強い熱ですね。それで焼くんです。しかしこっちの御守りから出る光のほうが強いんです。ですから、御守りを掛けている人は怖いことはないですね。これは、今度新聞に出します。なおあっちの……ハワイ、アメリカに送ってやろうと思ってます。まあ、首をかしげるだけのようなものでしょうが、それでも世界中で、だれもちょっと言ったことがないですからね。なにかのことがありますね。

(御論文「原爆恐るるに足らず」朗読)〔「著述篇」第一〇巻四六七―四六九頁〕

 一つだけ記録を読ませます。

(お蔭話朗読)〔「著述篇」補巻三、四七九―四八二頁〕

 これはおもしろく書いてあるつもりなんです。

(御論文「世界的丁髷時代」朗読)〔「著述篇」第一〇巻四八一―四八三頁〕

 これもよく言うことですが、まだときどき小乗信仰の人があるので、それにちょっと釘をさしたものです。

(御論文「人を裁く勿れ」朗読)〔「著述篇」第一〇巻四九三―四九四頁〕

 これについて少し話をしますけれども、大本教のお筆先に……あそこは立て替え立て直しということを言ってますが……「今度の立て替え立て直しは世界の大芝居であるから、悪の役も善の役も、両方あるのであるぞよ」というのがありますが、なかなかおもしろく言ってあるんです。ですから、いろいろの役があるんです。ところで、悪の役はないんです。悪に見える役はあるんです。ここが難しいところですね。人間には悪に見えるが、神様にはそうではない。人間には善に見えて神様にはそうではない……そういう場合もある。で、人間が、あの人は善だとか、悪だとか……判るものではないです。私自身がそうです。あいつは悪い奴だ……と言うが、神様に御用があるんだろうと思ってますと、あんがいな御用をするんですね。だから人間は上っ側を見ますから、中身は判らない。上っ側で決めるんですよ。そこが危い。神様は、中身も中の魂をも見抜かれるんですから、どうしてもしようがない。そこで、人間は上っ側を見るから、形に囚われるんですね。自分がやったことを、人はああいうふうに見るだろう、こういうふうに見るだろう、という。そこがたいへんなことです。そこで人間を相手にするな、神様を相手にしろと言うんです。人間の気に入られるというのは必要ないですね。神様の気に入られるんです。ところが、どうも人間の気に入られようとするんですね。それは、世間一般はそうなってますが、神様は違うんです。そこで、よく他の信仰なんか、お金なんか寄付すると、何千何百円とか、何の某と、札を出しますがね。私のほうは、そんなことはぜんぜん……だれがいくら出したか判らない。いくら出したといって、偉く思わせようというのは通用しない。神様に見てもらおうということはあるが、人間を対象とはしないですね。神様に見ていただく……それを対象にしますから、それが本当というわけになる。だから考え方が、神様中心……神様だけに見ていただく、お気に入っていただく……これで良いんです。そういうふうに思っていると、きっと御守護が厚いんですよ。だからそれが……ちょっといままでのいろいろな習慣やなにかもあるので、難しいんですね。その点ですね。そうすると、あいつは悪いとか、あの教会は間違っているとかいうことは、口に出さなくなる。思うことはかまわないですよ。神様は想念の自由は許されている。しかし、行動に出してはいけない。だいたいそのときの気持ちで、大いに興奮して言うが、それを我慢して言わないと、きっとああ言わなくて良かったということがありますよ。あいつは悪いと言うが、あとになると、たいてい後悔するものです。これは信仰の急所ですね。まあ……お説教になっちゃったから、このくらいにして止めます。

 それから、一昨日の晩、文部省の人ですが、今度アメリカから帰ってきて、一遍メシヤ教を調べる……といっても、悪意じゃないんですよ。まあ観察をしておくという必要がある、というような意味で……どっちかと言うと、善意と興味ですね、そんな点で、私も一遍会いたいと思ったので、会いましたがね。いろんなアメリカの話なんかしました。アメリカにもいろんな新しい宗教ができているそうです。日本が新宗教がたいへんあるように、新聞なんかに書いてありますが、そうでないらしいですね。アメリカも同じような傾向らしいですね。その宗教のやり口を見ると、メシヤ教に非常に良く似ているんです。似ていると言って、あちらは自由ですからね。そんな点が似ているので、大きさはとても似ているわけじゃない。その人はなかなか新智識の人で、役人らしくない人で、話がおもしろかったです。先も共鳴したし、私も大いに……役人と話しているような気がしなかったですね。昔の知人か友達のような気持ちで話をしました。やはり、アメリカは美術ということが非常にさかんになってきたです。特に日本美術ですね。それに憧れを持って、鑑賞するとか研究するとか、見たいとか……そういうことが非常にさかんになってきたようですね。それで、その人の話なんかも、いろいろ総合してみると、ちょうど……美術館を今度箱根に造ると、あれが時宜に適していると言いますか、実に機運にピッタリするようでして、やはり神様が……その空気とか情勢とか、そういうことをチャンと醸し出して、そこにピッタリ当てはめるようなやり方をされるんですね。神様は自由自在ですからあたりまえですが、特にそう思われるんです。それで日本美術と言ったところで、いつも言う通り、世の中には美術館やなにかあっても、日本美術というものは、ほとんどないんですからね。今度初めて造るようなものです。それで、いろいろ調べてみますと、今度箱根の美術館に並べるものですね。博物館の美術品よりか、たしかに上ですね。かなり上ですね。ただ、仏教美術……それだけが負けているんです。それは、博物館のほうはお寺から自由に借りますからね。博物館が持っているものはいくらもないです。ほとんどお寺から借りたものですからね。いずれ、こっちもお寺から借りるとか買うとかしますがね。そうすると、こちらも良くなります。それまでは……いまのところは、致し方ないですがね。あとの絵画、蒔絵、陶器(陶器は日本と支那との両方ですが)これだけは箱根の美術館のほうが、そうとう上になってます。だから、見た人はびっくりするだろうと思います。陳列の方法も、いままでのような……ただ雑然と、ガラス箱の中に品物を並べるというだけでなく、その品物がいろいろありますから、その品物によってケースを合わせていく。いろいろの、見る人の目の角度ですね。光線の具合……そういうことに大いに意を用いてありますから、その点も……今後の美術館の模範にされるべく力を入れてあります。日本でも、そうとうそういった美術館の計画があるようですね。最近聞くところによると、大阪の藤田ですね。藤田組ですね。あそこでも、そういう傾向がある。あそこは終戦前の美術品をずいぶん買い溜めてある。それがそっくり手をつけずにあるそうですから、これはなかなか見るべき物があるらしいです。いずれあっちのほうに作るだろうと思ってますがね。それから阪神急行の美術館も、早晩作るそうです。あれは、あそこの美術品の交渉する、なんとか言う人で古美術については、なかなか権威者だそうです。東京のほうはあまりそういうことは聞きませんがね。とにかく今度の箱根の美術館は、よほどセンセーションを起すだろうと思ってますね。しかも外人もですね。無論世界的に注目の的になるに違いないですね。そこで、まあ……外客が日本に来た以上は、箱根には必ず寄りますからね。箱根に来た以上は、必ずこっちの美術館を見るというように、外客はほとんど洩れなく見るだろうと思ってます。いま差し当たって必要なのは、英語のできる人ですね。英語ができて、そうして美術品に対して……それほど専門的知識はいらないけれども、とにかくいくらかそういった経験があるとか、さもなければ、そういうことが非常に好きだという人がありましたら……信者さんならなお結構ですが……心掛けてもらいたいと思う。そういう人が二人くらいいるんです。外人がたくさん来ますからね。それから、アメリカの美術館なんかに関係した人を私は知ってますが、あっちの人は、日本美術について、非常に説明を聞きたがるんだそうです。だから、無論そういった通訳的説明の人が大いに必要だと思うんです。なかなか、二人や三人では間に合わないと思うんですが、とにかくそういった適当な人がありましたら、心掛けてもらいたいと思うんです。それで、箱根は日本的に造るんですが、いずれは熱海に、これは本当の世界的のすばらしいものを造ろうと思ってます。それはそうとう先のつもりですが、箱根だけでも、いま言ったような具合ですからね。まあ、信者さんも大いにお蔭をいただけると思うんです。これは、お蔭と言ったところで、霊的じゃないですよ。と言うのは、ずいぶん大勢来るだろうと思いますから、ああぃうものをゆっくり見るということはできないですね。ところが信者さんは、信者さんだけが見る時間がありますから、ゆっくり見れますから、そういうお蔭は請け合いですよ。面会の時間までに……九時からとすると、九時から二時まで二時間は信者さんが見られますから、非常にゆっくり見られると思います。話はそのくらいにしておきます。

「昭和二十七年五月十五日 『御教え集』九号」 昭和27年05月15日