二月二五日
御伺い Y・S(昨年三月入信。六七歳)。昨年一二月一二日午前四時ごろ、ふと目が覚めますと、なんとなく頭が変で、胸が重苦しく、嫌な気分がいたし、便所に行こうといたしましたところ、立って歩けず、這ってまいりました。そのまま床に入りましたが、腰から下が寒気もいたしませんのにガクガク震えました。一時間ほどで平常に復しました。その後本年一月二日および二月五日、前回とほとんど同じ時刻に同じ症状となりました。そのときは必ず三、四回吐き気を伴いますが吐くことはなく、また必ず小用を催します。なお、本人の夫は昭和九年に脳溢血にて倒れ、昭和一七年再発死亡いたしております。本人は、昭和四年ごろ突然耳が聞こえなくなり、ストリキニーネを毎日一粒ずつ服用いたし、聞こえるようになりましたが、一週間後にふたたび聞こえなくなりました。その後服用はいたしておりませんが、現在もほとんど聞こえません。これは霊的でございましょうか。またいかがさせていただきましたら、よろしゅうございましょうか。御神体はお祀りさせていただいておりますが、仏壇は旧家のために非常に大きく、中央に大きな阿弥陀像があり、横に動かすのも困難と思われます。また本人が信仰していた関係もあり、まだ御屏風観音様をお迎えできない事情でございます。右御教えのほどお願い申し上げます。
御垂示 これは、光明如来様はお祀りしてあるんですね。仏壇はどこに。
御伺い 次の間にございます。
御垂示 本当の座敷に光明如来様をお祀りしてあるんですね。これは、祖霊が憑るんですよ。病気じゃないですよ。それで、祖霊のうちで、なにか気にかかることがあるんですね。それを頼みたいんです。これは信者ですね。仏壇は立派ですね。大きいんですか。
御伺い 三尺の幅で、一三代前よりございます。
御垂示 お祀りすれば良いんだな。きっとそれをやってもらいたいんでしょう。仏壇が大きければ、屏風観音様じゃ小さいかもしれないから、そうすると、お掛軸の千手観音様をすれば良い。
御伺い 阿弥陀像は木造で、厨子に入っておりますが。
御垂示 仏壇の中で厨子に入っているんですか。そうしたら、阿弥陀さんを向かって右のほうに、ちょっとずらせば良いんだがね。それを、祖父が承知するかどうか。
御伺い 本人が入信しておりますので。
御垂示 じいさんは。
御伺い 亡くなっております。
御垂示 それじゃ、なんでもないな。ずらせば良いですね。
御伺い 非常に大きいのでございますが。
御垂示 かまわないです。ずらせば良いんです。それだけです。
御教え 『結核信仰療法』の、この前の次の所を読ませます。この間は、結核は伝染しないというのがありますが、これは、以前にたびたび読んだから、それは止めて、次に移りますがね。
(御論文「毒素の解剖」「天然痘」朗読)〔「著述篇」第一〇巻六三―六八頁〕
それから、再軍備の問題がだいぶやかましいようなので、それについて書いてみたんですが、いま読ませます。
(御論文「再軍備に就て」朗読)
どうも、薬毒や浄化のことが、なかなか解り悪いんじゃなくて、信じ悪いんですね。解るのは解るが、信じ悪いというのが、よくあるんです。できるだけそこのところを解りやすく書いてみたんですがね。
(御論文「体内の入浴」朗読)〔「著述篇」第一〇巻四一五―四一八頁〕
それから、これはどなたも経験があることですけれども、信仰を人に奨めたり、いろいろしても、なかなか解ってくれない。それから、支部の人やなにかでも、もっと発展しそうなものだが、発展しそうでしないという人なんか、よくあるんです。そこで急って、いろいろ……落ちついていないで、積極的にやりすぎるんですね。これは、肝腎なことを忘れるわけなんです。それは、昔からいろんな宗教やなにかは、ほとんど宗教の歴史と言えば、苦しみの歴史ですからね。特にキリスト教なんか、ひどいですがね。殉教者という言葉があるくらいでね。苦しみ抜いて、そこに植えつける、とね。キリスト教なんか、よくありますがね。アフリカの蕃地なんかに、命懸けで行って、そこに信仰を植えつける。まあ結構なことには違いないですがね。けれども、そのために非常な苦しみをして、結局犠牲になっちゃうんですね。そういうことが宗教を発展させるという上において、必要であるというような頭がだれにもあるんですよ。そこで、メシヤ教信者になっても、やはり苦心惨憺して、そうとうな苦しみをしなければならん。というために無理をするんですね。無理をするから、ますます苦しくなる。それで、あんがい発展していかないんです。その点なんだと言うと、いままでは夜の世界だったですから、夜の世界というのは、地獄の世界ですからね。そこで、信仰でも……つまり地獄的信仰ですね。この間の新聞にも出てましたが、立正佼成会なんてね。子供が死んだ、そうすると今度また、名前が悪いから、何年何月に死ぬということで、嚇されて、それが恐ろしいんで、親子心中したということになってますが、実際はどうだか、あれほどじゃないと思いますがね。と言うのは、当局の新宗教に対する疑いや、新聞のデマですね。ああいうことは、私などは経験してますから、あれを丸呑みにはできないんです。あれほどではないと思います。しかし、ぜんぜん形はないことはないと思いますね。それの起りというのは、ラジオの「社会の窓」ですかね。あれから始まったんですからね。けれども、あれはだいたい、日蓮宗から出ている霊友会から、また別れたんだそうですからね。ところが、ああいう信仰のやり方をみますと、やっぱり苦しみ信仰ですね。地獄的信仰のやり方ですね。それだから結局問題は起りやすいんです。メシヤ教で問題……まあ、私の問題ですがね。新聞やなにかの問題は二度ありましたがね。最初のは脱税問題ですね。その次のは贈賄問題ですね。脱税のときに、税金を軽くしようとして、そうして賄賂を使った。そういう疑いの問題です。ですから、宗教上の問題ではないんです。と言うのは、そういった地獄的のことはやらないですからね。そこでいま話したような、苦しんで発展させようということはいけないんです。メシヤ教では……それをいけないと言うのは、夜の世界の信仰ですからね。メシヤ教のほうは、昼の世界の信仰です。天国を造る宗教です。いままでの宗教で、天国を造ると言った宗教はないんです。来るということは言ったが、造るということは言わなかった。時期が早かった。ところが今度はいよいよ昼間になるんですから、今度は造るんですね。そうすると、天国を造るには、まず一番の元は御自分ですよ。自分が天国にならなければならない。けれども、自分の境遇や家庭を、急に天国にすることはできない。だから、その因である自分の心ですね。心を天国にする。そうすれば、一家が天国になり、一国が天国になり、世界が天国になるんですから、まずなんといっても心を天国にする。そうすると、いろいろなことで苦しむということは天国ではない。一番解りやすいことは、病人なら病人を浄霊に行く。そうすると非常に愉快な楽しい家と、なんだか気の向かないが、嫌々ながら行く家と両方ありますね。そうすると、なんだか気の向かないというのは地獄ですから、本当は避けられれば避けたほうが良いんです。楽しいというのは、良いし、そういう病人は治りが良いんです。発展するんです。けれども、全部が全部そうばかりはいかないですがね。それではまるで、わがまま坊ちゃんみたいでね。そうばかりもいかないが、原則として、そこに重点を置く。神様もそれが思し召しですがね。それが、天国的信仰と地獄的信仰です。そういうことは、神様にお任せすると良い。どこまでも人間の力でやろうということがいけない。ところがいままでいろんな……習慣やそういうような一つの思想を植えつけられてあるので、ともすればそういう心が起りやすい。で、自分で目的を立てて、それを実現しようとして骨を折るんですが……それは人間は目的なしでやることはできないから、良いですが……どこまでも進むから、そこで無理になる。無理になるから、そこで、逆結果になる。その点を良く心得ておけば、かえって楽にうまくいくんですね。私なんかは、最初はそうでなかったが、そのことが解ってから、そうやってますが、少しやってみて、思うようにいかないと、神様に任せておく。忘れるようにする。そうすると、忘れた時分にヒョッとうまくいく。ということがよくあるですね。信仰でも、地獄的信仰、天国的信仰と、こうあるんです。いままでの信仰は全部地獄的信仰です。で、メシヤ教で初めて天国的信仰という信仰が生まれたんですね。その点の区別ですね。それをよく知らなければならないですね。だから、こんな楽なことはないんです。楽にやるほど成績は良いんですからね。
それから、いま言論の自由ということを言ってますが、言論の自由は許されているが、言論の自由のない階級があるんです。言論の自由が一番ないのが、ジャーナリストです。これはおかしいですね。とにかく新聞記者ですね。ちょっとあべこべのように思うんですが、本当なんです。気の毒なものです。書きたいと思うことを書けないんです。曲げて書かなければならない。書きたいということを書けば、これ(首)ですからね。メシを食うためには、どうしても曲げて書かなければならない。言論の不自由ですね。これは新聞屋さんが読んだら、変な顔するだろうがね。
(御論文「ジャーナリストには言論の自由なし」朗読)〔「著述篇」第一〇巻四二八―四三〇頁〕