昭和二十七年三月二十日 『御教え集』七号  (3)

二月七日

御伺い Y・H(二二年入信。一○歳)。二一年九月、三尺の高さの所より落ちて、後頭部を強打矢神いたしました。一週間後より発熱し、そのとき薬名不明の注射をし、それより激しい引きつけを絶えず繰り返し、死の一歩前までまいりましたときに、御浄霊をいただき救われましてより、めきめきと良くなりましたが、五カ月目ごろより再浄化いただき、その状態は死の断末魔の様相で、全身冷たく、紫色に硬直し、額面は引き吊り、正視できないような状態でございましたが、御守護いただき最近は体も暖かくなり、血色良く、特に顔色はきれいになり、体格もふつうの子供より良いくらいでございますが、智能は二、三歳くらいの幼児と同じでございます。家中入信させていただいており、御屏風観音様はお祀りさせていただいておりますが、御神体はまだでございます。薬毒のためでございましょうか。または、なにか霊的関係がございましょうか。御教示のほどお願い申し上げます。

御垂示 これは薬毒ではありませんね。薬毒でこういうふうにはならないですね。やっぱり、後頭部を強く打って、その内出血がまだ固まっているんですから、知能的な機能が発育不能になっているんですね。ですから、後頭部を良く浄霊すれば良いんです……気長にね。そうすればだんだん良くなるわけですがね。ちょうど、やっばり霊が憑ったと同じような症状になるんでしょう。で、御神体をお祀りしなければいけませんね。これが根本だからね。御屏風観音さんだけじゃいけないですね。さっそく御神体をお祀りして、後頭部を浄霊すると治りますよ。二二年に入信していて、いまもって御神体をお祀りしないようなことじゃいけませんね。その心掛けが、やっぱり御守護いただけないのですね。やっぱりどこまでも、やるだけのことはやって……そうしてやらなければ、御守護が薄いですよ。

御伺い S・T(一〇歳)。三歳のとき急に眼の玉が中央に寄り、手足がきかなくなり、医診では脳性小児麻痺とのことで、治る見込みなしと言われ、堀之内H寺の堂守に見てもらいましたところ、家の後ろで、一間ばかりの板餅を取り除けて防空壕を掘りましたので、地神の怒りでなったとかで、二一日間御浄め(神報に塩を上げ、良くお詫びして、その塩を使った土地に撒く)するように言われ、浄めてもらいましたところ、二日目に元通りになりました。二二年四月私(母)入信。同年七月(母は交通事故で足を怪我、即日死亡)頭痛激しく、御浄霊させていただきましたが、初めてのことで良く解らず、アスピリンを服ませ、元気になったように見えましたが、翌朝より左足がきかなくなりました。その当時は非常に痛がり、足の付け根より全部に痛みがあり、御浄霊させていただきましたが、途中一年ばかり他のこともいたしました。現在御浄霊させていただいており、主人および本人も入信。御神体もお迎えさせていただいております。足首がグラグラで、冬は膝から下がとても冷え、常に足の裏、特に指の付け根付近は、甲もグニャグニャになり、最近一カ月、頭(特に初頭部)の痛みを誘え、それが良くなりましてより、グニャグニャもだいぶしっかりしてまいり、特に親指の屈伸も少しずつできるようになりました。御浄化いただきますと、両脚の長さが異なり(悪いほうが短く)そのうちに同じ長さにさせていただけます。御浄霊の急所を御垂示お願い申し上げます。なお発病の同月末、次の子が帰幽いたしましたが、住所が安定いたしませんので、足掛け五年、隣り村のお寺に骨を預けております。また頭部の骨が良く焼けなかったので、灰捨場に灰をかけておきましたが、後日行ってみますと、違う位置にころがっておりました。家主の好意で、家主のあいている墓に頭だけ入れてもらいましたが、土に還っていることと思われます。右の骨はいかがいたしましたら、よろしゅうございましょうか。

御垂示 地神……よく地の神様と言いますがね。二日目に元通りになり……不思議なものだな。家主の墓に……これは早く処置しなければいけませんね。早く埋めたほうが良いです。この頭と一緒に埋めなければいけませんね。頭だけ……これはいけないですよ。ちゃんとくっつけて、埋ける所はしかるべく当然ですから、つまりバラバラはいけないですね。これは霊の障りもありますけれども……私の母、足を怪我して……死亡、この霊が憑いたんですね。この子供の足の痛みですね。これは足の付け根と膝の、主に裏のほうが急所ですから、そこを良く浄霊してやる。そうして気長にやれば、すっかり治りますよ。これはもう一息で治るから良いですね。次の子……足掛け五年、こいつはまずいな。早く、いま言ったように頭と一緒にして、なるべく自分の墓に埋めたほうが良いんですがね。どうしても不可能なら、家主の墓でも良いですがね。これはお祀りしてあるんですね。まあ、そんな具合ですから、別に心配いりませんよ。

御伺い T・K(二四年一〇月入信。三七歳)。御屏風観音様、御神体を御奉斎させていただき、教修会場に二回使っていただき、家族全部入信させていただきました。二五年九月、瑞雲郷の御奉仕隊に参加させていただきました。昨年八月、妻が女児を分娩。一○年初に腎臓病を医薬にて固めております。妊娠中右横下腹および右足が引きつけ、お産中も産後も、右足が痺れて脚気のように不自由でございましたが、現在はたいへん楽にさせていただきました。そのためか乳児は血色悪く、乳を良く飲む割に大きくなりません。昨年一二月に百日咳の御浄化にて、一時は息も絶えるかに見えるほどでございましたが、二週間くらいにて楽になり血色も少し良くなりました。生まれたときより右の眼が腫れており、目脂や涙が多く出ておりましたが、現在目脂は少なくなっております。右の眼の黒玉はちょっと小さく、瞳孔が丸い面とギザギザの面とがございます。なお、物を見るらしいときには、大きくなったり小さくなったりいたします。両眼とも黒眼は下へ下へと降り、右眼はほとんど白玉となります。耳は良く聞こえますが、現在五カ月になりますが、あやしてもほとんど笑いません。曾祖父が四年前七五歳にて死去いたしましたが、右の眼は石の破片にて四五歳のときより失明いたしておりました。右は霊的でございましょうか。または毒素のためでございましょうか。今後いかがいたしましたらお救いいただけましょうか。御浄霊の急所、御教えのほどお願い申し上げます。

御垂示 引きつけ……これは引き吊りじゃないのかね。薬毒もだいぶありますがね。右の足が引き吊るとか……そういうのは、毒の固まりですよ。脚気のように……これもそのためです。子供が血色が悪く……これも薬毒ですよ。どうも、曾祖父……この霊が憑いているようですね。四五歳のときより失明……その当時にギザギザがなったわけだね。まあ、霊的ですね。これは右眼ですね。眼と後頭部の真ん中の所を浄霊すれば治りますよ。それから、あやしてもほとんど笑いません……良く見えないんじゃないのかね。眼が良く見えないんですね。生まれたばかりだから、こういうのは割合に治りの良いものです。

御伺い K・T(四四歳)。頭が重く人と語るのも嫌になり、物を持つこともできないようになり、仕事もできなくなり、医師に一カ月かかり、不明の注射を二〇本ほどしましたが良くならず、鍼を約一〇回ほど頭に打ち込み、腰と足に灸をしました。その後少し楽になっておりましたが、弟Cが気違いになり、あちこちと迷ったあげく、どうしても治らず、最後にお道の先生にお救いいただき、二三年一〇月入信させていただきました。翌年四月熱海本部に御参拝、帰宅後いっそう頭の御浄化をいただき、一カ月ほどにて元気にさせていただきました。二六年秋季大祭に御参拝帰宅後、またも頭の御浄化をいただき、今日に至るも苦しんでおります。症状は、頭がある日は重く、ある日は頭中に、なにか詰め込んだような苦しさもあり、その間は、毎日自分の頭のようではなく、思うように考えられず、なおときどき身体全体が震えて、胸が詰まるようになり、下腹に力なく震え上がります。なにごともうるさくてできません。五、六歳のときに腸を患い、引きつけを起し、母が長谷の観音様に、足が届くようになったら、年一度祭日には参拝するようお願いしてあって、毎年お詣りしておりました。一九歳のとき木材が頭に強く当たり、口鼻より多量に出血したことがあり、約一カ月くらいは頭中で脳がゴロゴロしているように思いました。現在の職業(種苗園農業)が嫌になり、転業を考えております。会長先生の御浄霊をいただきますと楽になりますが、家に帰りますと、また頭が変になります。私の母の父は気が狂って亡くなり、養父は脳梅毒で死亡しております。私の頭の御浄化は霊的でございましょうか。主としてどこを御浄霊いただきましたらよろしいでしょうか。御教示のほどお願い申し上げます。

御垂示 これは、無論薬毒ですよ。不明の注射二〇本……これがたいへん禍してますね。それから、鍼……これが悪いですね。直接頭に注射するんだからね。この薬毒ですね。他の薬毒もありますがね。この症状は薬毒が頭に固まった症状なんです。だから、こういうふうなんです。仕事が嫌になったり、頭が……考えようと思うことが、考えられない。まとまりがつかなくて、それだから、なにをするのも嫌なんですね。これは治りますがね。やっぱり長くかかりますね。だんだんだんだんですからね。後頭部に固まりがありますよ。それから頸のまわりと、とにかくできるだけ根気良く浄霊するんですね。自分でやると良いです。それで治りますよ。

 これは私の経験もあるが、昔の歯の薬毒が頭に行ってね。ちょうどこんなようなものです。だから自分で……発狂するか自殺するか、どっちかですからね。考えようと思っても考えられない。他のことを考える。痛んで、その薬毒がだんだん頭に上がって、そうして頭に固まっちゃった。

御伺い M・M(二七歳)。一〇歳のとき、父は三九歳で生活苦のため頸動脈切断自殺、次男の弟は空襲で機銃弾にて左腎臓盲貫で死亡。間もなく母が脳溢血から中風を患い、二二年九月ごろより御浄霊をいただいております。同年一一月私が入部させていただき、翌年一月弟妹が人信、二月に母とその妹と嫁先の姉が入信させていただき、光明如来様、御屏風観音様を御奉斎させていただきました。母は御浄霊をいただきながら、眠るがごとく他界(二三年一一月)いたしました。翌年八月より妹が、以前頭部に打撲傷を受けたのが再発し、また肝臓の御浄化をいただき、本年に入って、また弟が心臓の御浄化で死亡(一〇月)。妹も一一月に死亡いたしました。二人とも御浄化中なによりも水を欲しがり、吐くくらい飲まぬと収まらず、特に妹は死ぬ二日前に、なにも思い残すことはないが、水をバケツ一杯飲みたいと言っておりました。考えてみますと、入信以前に屋根に青大将がいたのを殺したことがございます。弟妹の死は、なにか霊的関係がございましょうか。なお、親類は浄土宗の信者で、お道に反対で、会うたびごとに信仰を止めよと迫ります。今後このままでよろしゅうございましょうか。御教示のほどお願い申し上げます。

御垂示 吐くくらい……これは蛇の霊ですね。いまのままで良いんですがね。一生懸命信仰をして、人助けをしなければいけないですね。ここの家は、祖先以来の「メグリ」がたくさんありますからね。こういうのは、もう一家断絶くらいの運命になっていたんですよ。それを助けられたんだからね。やっぱり入信したからといって、すぐ全部罪穢れがなくなってしまうわけじゃないんだから、まあ……半分くらいはどうしても早く取れないわけですね。それで、あとまだ不幸があったわけです。しかし、こんなもので不幸も打ち切りになったらしいですね。それから、水を飲みたい……これは青大将を殺したそれがくっ憑いているんですよ。つまり居所がないからくっ憑いちゃうんですよ。やはり祖先ですがね。そういう場合も、そこの家の「メグリ」が減って浄まっていれば。そういうのが憑いたり、害をしようとしても、力が出せないんですがね。こっちにそれだけ弱味があるからね。それで、霊に自由になっちゃうんですよ。まあ……一生懸命に人助けをする。そうして徳を積むんですね。そうするとだんだん良くなりますよ。こういう家はたくさんあるんですよ。

御教え 二、三日前に箱根の美術館を見に行って、そのとき感じたままを書いてみたんですがね。いま読ませます。

(御論文「私の美術修業」朗読)〔「著述篇」第一○巻三八七―三八九頁〕

 いま読んだ通り、日本美術というものは見られないんですよ。日本美術を見せる所は一つもないんです。それで、日本は世界の美術国であり、日本人は非常に芙術に秀れていると言っても、できた物を見られないとしたら、おかしな話です。ですから、外国人でも日本美術は知らないんですよ。見たことがないからね。少しは見るけれども、本当の良い物はほとんど見られないですね。ただ、写真か図録で見るくらいです。ところが写真も、天然色はごく少ないですからね。たいていふつうの白黒写真ですから……やっぱり、美術品は色が判らなければ、おもしろくないんです。ただ、形だけではね。そうすると、しかたがないから……外国人なんか、支那美術を蒐集します。非常に趣味を持っている。ですから、この間サンフランシスコで、講和会議のときに展覧会した……あれは日本から百数十点出品しましたが、あれも私が後で、博物館で展示会がありましたので行って見たところが、日本の仏教美術ですね。だいたい三分の二は仏教関係の物ですね。だから、外国人は日本の仏教……特に彫刻ですね。これは非常に驚いている。ですから、欲しがっていますよ。欲しがっているけれども、仏教美術の良い物は、みんなお寺にあるんですよ。ですから、外人が見ようとしても、一軒一軒お寺を尋ねるわけにもいかないし、お寺の本尊様になっているから見られないですね。他には、日本の陶器とか蒔絵はほとんど出なかったですね。ところで、日本の美術で特色ある物ですね。それは、絵では琳派ですね。光琳、宗達、乾山ですね。これは世界に誇るべき物なんです。ところが、この間のサンフランシスコなんかは、琳派物なんか一つもないですね。陶器では仁清、乾山、鍋島です。で、日本画は琳派と、あとは土佐派ですね……大和絵ですね。それから浮世絵……それだけが日本独特な物です。日本の古い物は狩野派が多いですが、それは支那の宋元時代の模倣ですからね。模倣と言うが、それにヒントを得て……まあそれを倣ったようなものですから、日本画としては、さっき言った琳派と大和絵と浮世絵ですね。陶器は、いま言う仁清、乾山、鍋島。あとの陶器は、やはり支那、朝鮮の模倣なんです。あと日本に良い物がありますが……柿右衛門なんかも支那のいろいろな模倣ですね。ですから私は、柿右衛門は有名ですが、あまり重きをおいてないんです。あとは尾張物と言って、茶器なんかに多いですが、尾張の、唐津とか志野、織部、瀬戸ですね。そういう尾張の陶器はなかなか良い物があります。特色がありますが、これは朝鮮から習ったんです。朝鮮の職人が来て教えて行ったんですからね。あといろいろな物は、みんな支那から入っているんです。だから、日本の特色というと、いま言う絵と陶器ですね。あとは蒔絵ですが、蒔絵は本当の、日本の一番の特色ですね。日本でなくちゃないんですからね。そういう物なんかも、ほとんど出ないんですがね。よく、蒔絵はアメリカに行くと壊れちゃうと言うが、漆器類は乾燥を一番嫌う。ところがアメリカの空気というのは、特に乾燥している。特にシカゴ辺りが一番乾操している。そこに行くと、みんな駄目です。バラバラになっちゃう。ところが、それはできが悪いからで、本当にできが良い物は、絶対にそういうことはないですね。そういう良い物を出せば良いが、出品する人もアメリカは漆器が壊れるということを聞いて、本当のことを知らないで、出さないというのが多いですがね。いま言ったのが日本的美術ですね。そういう物を、箱根は主にして出すつもりです。ですから、今度の箱根の美術館を見ると、日本人でありながら、日本でこんな良い物ができたのかなと思う人が、ずいぶんあると思います。外人なんか、たいしたものだ。日本美術は良いものだということが解るだろうと思う。浮世絵なんかも、外国人が大騒ぎするのは版画ですが、版画はそうたいした物はないですが、肉筆物を見るきっかけがないし、見てもわずかずつで、手に入れることができないから、外人は解らないから、版画が良いとしたんです。ですから浮世絵の版画はずいぶん外国人が欲しがって、良い物は高いですよ。版画の初版で良い物になると、一枚一〇万円、ニ○万円のがありますからね。肉筆物はその何分の一ですから、それで私は肉筆を集めた。安くて良いものですからね。いまは高くなってきましたがね。一流品を私はずいぶん集めました。そういうものを見せると、非常に驚くだろうと思います。で、今度なんかもロサンゼルスで、支那の陶器の展覧会がありますがね。支那の宋時代の……宋磁器というのを主にしている。そうして日本にも依頼が来て、日本でも一五点出すが、ついこの間発送しましたが、支那の宋時代の陶器というのはたいしたものですね。やはり、箱根に出しますがね。最高の物を出したいが、最高の物は出せない。最高の物はアメリカの美術館にあるんです。これはとうてい、支那にも日本にもないんです。その次の物はありますがね。その次の物は、今度美術館に出しますがね。支那の一番美術の良い物ができた時代は宋ですね。特に北宋のほうが良いですね。ずっと古いのは唐ですがね。唐時代もかなり良い物ができましたが、なんと言っても宋ですね。宋はいまから九百何十年前ですね。約一〇〇〇年前ですね。一〇〇〇年から……宋時代というのは一八〇年続いた。ですから、ちょうど日本の弘仁から藤原時代ですね。それがちょうど合っている。日本でも、最初仏教美術ですが、仏教美術は推古から飛鳥、白鳳、天平……千二、三百年前が良い物ができたですが、いま見てもすばらしい物ですが、仏教美術ですからね。藤原時代に仏教美術もあったが、それ以後いろいろな物ができたですね。平安朝ですね。そのときが、支那の宋時代に当たりますからね。それで、よく日本と時代が合っているんです。それで日本が、足利時代になって、義満、義政が非常に支那美術を尊重して、輸入したですね。それでそのときに、いろんな宋時代の良い物を輸入した。それが、いま日本に残っているんです。そこで、アメリカでも数がないんで、今度の展覧会でも、日本に勧誘したんです。ですから支那陶器というのはアメリカ、イギリスでは非常に研究してあるんです。それは、支那陶器の学者というのは、向こうにもチョイチョイあります。ですから、日本の、どの陶器はどこになにがあるということは、ちゃんと調査してある。今度、個人の物でも、どこのなにと、ちゃんと指定が来て、一五点送ったんですがね。支那陶器は知っているんですが、日本の物は知らないんです。今度は、そうとうなるほどと思うような物を出すつもりですがね。それで、支那は宋時代には陶器ばかりでなく、あらゆる文化が発展したですね。支那でも偉い坊さんですね。それも宋時代が一番出た。宋時代にはいろんな王様が、美術を奨励したんですね。そのときにできたのが、たいへん良い物ができた。いま、支那で、それを作ろうとしても、ぜんぜん駄目だそうです。ぜんぜん分からないそうですね。土だとか、薬だとか、ぜんぜん分からないそうです。支那は、その次に明の時代ですね。明というのは、そうとう長かったんですがね。明の時代といっても一番最初宣徳という年号ですが、そのときそうとう良い物ができたんです。宋時代のは無地物がほとんどだったですね。明の時代には、赤い物だとかですね。成化、正徳、嘉靖、万暦と……こういう具合に良い物ができたんです。そのとき一番良い物ができたのは嘉靖ですね。嘉靖の赤い物は、日本の柿右衛門とか、伊万里とかでまねしたものです。支那は近代になっては、康煕年間、乾隆……この時代になると、非常に巧みになってますが、とても安っぽくて見られないですね。ちょうど日本では、向こうの明時代が桃山時代になりますからね。桃山が高価な良い物ができたのとよく似ているんです。藤原、鎌倉、それから桃山、それから元禄、それから明治と、これだけが良い物ができてますね。日本は昭和になってから、戦争もありましたが、ガタガタになっている。そんなわけで……学校の美術品の講座みたいですが……ですから箱根の美術館というものは、その点において世界一だと思ってます。とにかく日本美術を見せるという所はないんですからね。だから、知れたらずいぶん見に来る人が、たくさんあるだろうと思う。外人は箱根に来た以上は必ず見るというようになりますね。美術館の話はそれくらいにしておきます。

「岡田茂吉全集 講話篇 第七巻」 昭和26年03月20日