御教え 話をする前にちょっと、いま車の中で気のついたことがあるので……あまり、めったに話をしないことを ……ちょっとためになる話と思うので、その話を先にしますが……私はよく映画を見ますが、そのときに……アメリカ映画ですね。その言葉が字幕に書いてありますね。あの言葉が、実に洗煉されているんですよ。日本人の言う言葉よりね。いつも、私は感心するんですが、それを考えてみると、日本人の言葉がまことに洗煉されていないんですね。だから、信仰者として人に話をする場合も、洗煉された言葉を使うように心掛けるんです。これはある程度実現できるんです。というのは、洗煉されると言いますと、急所を言うんですね。あまり無駄とか、ずれたことは言わないんです。実際に事実に良く合っている事柄の表現を、上手く言い現わすということですね。これが法なんです。法にかなうとか、法があるとかいうのは、言い換えれば道なんです。道にはずれないように、道に合うようにと言うのは、それなんです。これは、ひとり言葉だけではない。挙動から態度、考え方、行なうことが、みんなそれに、はずれないようにいくんですね。譬えて言えば、人の家に行って格子を開けて、玄関に上がって挨拶をし、それから部屋に坐って、そこの家によって……相手によって、坐り方も話の仕方も、やはり違わなければいけない。話でも、招ばれた場合の態度と話もあるし、それから先方に、こっちの都合で行って話をするのと、それから話の内容ですね。先方に対する言い方から、受け入れさせ方……そういうことも、やはり法があって、でたらめではいけないですね。一番困ることは、自分の言いたいことを言って、先方にしゃべらせない人がありますが、これがもっともいけないですね。話し上手より聞き上手……で、相手の話を充分聞いてやって、それに応じてこっちが話をする。そうすると、先方は気持ち良く、話し合える。それから大勢の話の場合に、人が話をしているときに、口を入れる……ひどいのになると、大きな声で、先方の話を打ち消すようにするんですね。その代表的なものが、日本の議会ですよ。しゃべっていると、打ち消すようにする。それから、地位のある人の会合ですね。大きな声で、しゃべっている人の話を打ち消す……ああいうのは悪いですね。そういうのは、歩き方にも態度にも、いっさい法があり道がある。そうして道も……相手によっていろいろ違わなければならない。女は女に、年寄りは年寄りに、インテリはインテリらしく、平凡な人は平凡に、と合わしていく。合っていく……これが応身の働きです。そういうことがちゃんと……そう理想的にはいきませんがね……なかなかね。いくぶんでもそういうふうに、合っていくと、その人の運命に非常に良くなっていく。人に好かれないとか、人が賛成しないというのは、相手の罪ばかりではなく、こっちにもあるんですよ。一番ひどい……いけないのは、嘘を吐くことでしょうね。嘘を吐くのも、悪意でなく一時的に嘘を吐くのがあります。一時的に嘘を吐くと、相手が喜んだり感心したりしますからね。ついおおげさに言ったり、大掛かりに言ったりする。そうすると、あいつがああ言うんだから、実際はこのくらいだろうと割引される。私なんか、割引しますよ。だから、たまたま本当言っても、割引されちゃって、つまらないですよ。嘘を吐かないんですね。あの人がああ言うんだから本当だ。と、その信用がたいへんなものです。どうも、人が信用しないとブツブツ言う人がありますが、独りよがりだから、〔他〕人でなく、自分にどこかやり方にいけない所があるので、それを省みて発見しなければならないですね。こんなことは、たいして問題にすることもない……つまらないようなことであるようで、肝腎なことですね。それから、愛嬌ですね。からお世辞なんか言うが、あれもいけないですね。信用にかかわるんです。あいつはああ言うが、腹の中はどうだか解らない、となる。一つの臭味がつきますね。正直に言うことは、少しは先方を非難するようなことでも、良くとられるものです。私なんかも、ずいぶんひどいことを言うことがありますよ。しかしどっちかと言うと、先方を気持ち良くさせたいという気持ちで言うから、滑稽に言う。それで、先方がああと言って反省する。そういうことになると、難しくなりますが、結局相手を気持ち良くさせるということが肝腎ですね。だから大勢の場合は、中には厭なことや変なことを言って一座を白けさせる人がありますが、ああいうのは、ごくいけないですね。人に快感を与える。つまり、わざとらしくない……また正直に言うと良いものなんです。こういう話は、めったに話をしないことですからね。一つのお説教的なことですがね。しかし、あることによって気がついたんです。こういう話も、一遍話して良いと思ってお話するんです。
「『御教え集』六号,講話篇第六巻p366~368」 昭和27年01月06日