昭和二十七年一月二日 教集06 (3)

 それから一昨日……大晦日の日に……私は箱根に行って、美術館を見てきましたがね。思ったより早く果がいって、そうしてでき具合も、私が予想したよりずっと良い……非常に立派です。堂々たるものです。ちょうど……中に入ってみると、お役所か……政府か市かで作ったように感じられるんですね。立派なものです。で、いまの具合でいくと、だいたい予定通りにはできます。予定というのは五月いっぱいにできるつもりです。そうして、家が立派で、中身が伴わなければしようがないんです。中身のほうも、いろいろ……私が昔から買い溜めた……それからまた、信者さんの献納の品物がいろいろありますが、やはり本当に……一級品ですね。国宝級のような物は、お寺とか、昔の財閥ですね。大名……旧華族ですね。そういう所にあるんです。そういうのは、なにはどこにあるというように、世間に知れ渡ってますからね。それを、先で売るわけにもいかないですが、そのくせ、非常に財政に苦しんでます。それを売ると信用にかかわるんですね。あそこの家は、あれを売るようじゃ、もう駄目だ。となる。それからまた、値段も非常に高いですからね。そうかといって、秘蔵しているというのも、もったいないからして、どうしてもそれを生かさなければならない。そこで、非常に金に困っているんで、いくらかお礼ですね……そういったものを出す……まあ貸すんですね。それが、あんがいうまくいきそうなんです。それからお寺のほうは、無論……京都、奈良あたりのお寺は非常に困っているんですからね。大徳寺あたりでも……この間京都に行ったときも見ましたが……障子は破れて、雨は漏るし、実に涙が出そうなような状態ですね。ですから、そういう所の宝物にしろ、そうとう……お礼というものをやれば、喜んで貸すわけです。そういうものやなにかの一級品ですね。そういうのを、そうとう陳列できるだろうと思います。ですから、日本一の美術館にはなります。これは間違いないですね。そのために、ずいぶん見物人は来るだろうと思います。外国にも知れますしね。箱根はほんの……最初小規模に見本的にやろうと思ったんですが、なかなか思ったより立派な存在になるだろうと思います。で、いずれは熱海のほうですが、熱海はもっとずっと立派な……これは世界的のですね。外国から日本に、その美術館を観に来るというお客も来るだろう、というくらいの計画ですからね。まあ……見らるる通り、なにか私のほうで計画をすると、あんがいスラスラとうまくいくんです。美術館も去年の春あたりから計画したんです。それまでは、私はそういう考えはなかったんですが、やはり神様のほうから……時期が来ると、ヒョッと……それからやり始めると、スラスラいっちゃう。これはとにかく、人間がやっているのと違うことは良く分かるんです。実に、おもしろいようにいくんです。だから、考えてみると、実に早いですよ。箱根でも熱海でも、まだやり始めてから幾年にもならないですからね。四、五年ですからね。それでも、あんなにどんどんいっちゃうんですからね。それで、箱根のほうも、信者さんには勿論ですが……一般にも公開するつもりなんです。私が、いつも論文なんかに出している通り、美術思想を養うということが一つ。それから、美術家ですね。美術家が参考品がなくて困っている。見る所がないんです。そういう意味で……つまり美術家を養成するというわけが一つですね。それからもう一つは外人ですね。外人が日本美術を見ようとしてもないですからね。で、そういったような気持ちを満足させるということ……それらの点が……主なる点ですが、最近の新聞にも出てましたが、今度アメリカで、日本美術を大々的に展覧会してもらいたい。ロックフェラー財団ですかね。そんなことを言ってきているんですがね。無論もう少し経つと、日本でも……これは内々話があったんで、だいぶ準備しているんで、すばらしい展覧会が出るだろうと思いますね。とにかくアメリカは、日本のそういった美術とか、あるいは芸能とか……非常に注目している。昨日も猿之助が年始に来たんですが、去年の元日に私の所に来たところが、去年一年中馬鹿に良かったと言うんです。いろいろ順調に行って、良いことがあった。今年も、ぜひ元日にお伺いさしていただきたいと、夫婦で来たんです。そのときの話で、アメリカで……これは新聞にも出てましたがね……二、三日前にね。ぜひ歌舞伎に来てくれ。座員は五〇人で、費用は一人一〇〇万円かかる。ですから、五〇人で五〇〇〇万円かかるんですね。また、向こうでは、歌舞伎のそうとう渋いものを興味を持っているようですが、だいたい踊りですね。いま日本で、本当に踊れるというのは、猿之助より他にないですからね。『鏡獅子』なんていうと、外国で一番もてはやされるものですからね。他に踊れる者はないんです。ぜひ行けと、私は油をかけておきましたが、たぶんそうなるだろうと思います。それで、いろんな話から、私の美術館が……非常に、ああいった世界でも評判になっている。早く観たいと言っていた。美術館を造るとともに、芸能も大いに奨励したいと思っている。メシヤ会館ができると、舞台を……劇場ではないが、劇場的に舞台を作るつもりです。ふつうの劇というと、興業になり、なかなか面倒なんです。そこで音楽、舞踊ですね。これは、ずっとやかましい規則がないらしいから、音楽と舞踊……それをできるような設備にしようと思っている。というのは、私はああいった芸能ですね……そういうものも、もっと良いものにしたいということですね。この間猿之助が、こういう話をしましたが、アメリカのある婦人ですが、どうも昔の古い……そういった美術には、非常に秀れたものがあるが、新しい……近代に至っては、そういうものはないのはどういったわけだろう、と言っていたそうですが……猿之助が、芸術というのは、いつの時代でも、地から湧いたようにあるんだが、昔の人は、そういうのを発揮する力があったが、いまの人はそれがない。それで、その答弁がおもしろい、と言っていたそうです。それで私が、そういうことは、あるにはあるが、もっと適切なことは、経済問題だ。つまり、古い時代に良い物が出たというのは、生活に困らない……食うものに困らないから良い物ができた。世界で一番良い物がというのは、支那ですね。支那の唐、宋ですね。唐には非常に良い物ができた。支那陶器というのは、北宋、南宋ですね。時代にすると、いまから九〇〇年ないし一〇〇〇年前……八〇〇年、九〇〇年前ですね。その時分に一番良い物ができた。なぜかというと、王様が、陶器の良い物を作れと言うんで、ほとんど一生涯生活の面倒を見て作らせた。一つの皿を作るにも、五枚とか一〇枚作るんです。そうして、そのうちの一番良い物を一枚取って、あとは壊す。だから、支那では、その壊した破片がいっぱいあるんです。私も持ってますがね。そういうようですから、宋時代は実に良い物ができた。実に人間業と思えないような良い物ができてますね。支那はそうですが、日本はどうかというと……日本も、大名とか将軍が奨励したんですね。足利義政、義満ですね。あの人なんか、画家なんかに扶持をやって画かしたんですね。東山水墨画といってね。墨絵ですがね。良い物ができたんですよ。その中で一番良いのは、狩野派で ……狩野雪舟ですね。アメリカ人が日本の……狩野派で買うのは雪舟ですからね。というのは、結局、足利将軍がああいう物を作ったといっても良い。それから啓書記、周文ですね。それから相阿弥、芸阿弥、能阿弥……あとはほとんど切れちゃったですね。それから桃山時代に宗達、光悦……この二人の名人が出たですね。これは、秀吉がそういった……それを奨励したためで、それから、徳川期に入ってから、徳川時代の大名がいろいろ良い物を作らせた。それから陶器とか絵画の非常に良い物を作った。それから、鎌倉時代には、寺で……そのころ寺は裕福でしたからね。仏教が日本を風靡してましたからね。それで仏像とか作って、そのとき彫刻家の良いのが出た。運慶なんてのは、その時分で一番なんです。そう見てくると、美術の良い物ができるのは、結局経済問題なんです。蒔絵でも、加賀の御小屋蒔絵といって、庭に一軒家を作って、一生涯コツコツこしらえた。御小屋蒔絵というすばらしい物ができた。私も御小屋蒔絵は少しありますがね。いま、良い物ができないということは、経済問題なんです。なにしろ食っていかなければならないですからね。それには金を取らなければならない。というんで、もっと考えようと思っても、画きあげて金にしようと思っても、食うことができないから結局できない。日本でも、最近まで横浜の原富太郎ですね。あの人は、そういった意味で、美術院《日本美術院》というのを作ったとき、大観、春草、観山、武山の四人に、一年に一人一万円ずつやったものです。一年一万円だと楽に食って行かれたですね。それで良い物ができたのを、お礼として……お礼というんじゃないが、そういった傑作を一つよこせば良い。それで良い物ができたので、日本の画家がみんなまねして、絵画というのは、あのとき以来一大革命されたんですね。そういうような、結局経済問題なんです。猿之助の話で、松竹なんか、営利ですから儲けなければならない。お客がたくさん入って、儲ける。それっきりだから、いろいろ工夫したり、良い物をやろうと思っても、暇がない。みんな御座なりになってしまう、ということを嘆いていましたが……われわれがそういう方面までやれるかやれないか分からないが、もしやれたら、音楽家にしろ……地上天国というのは、そういったものが主になるんですから、大いにさかんにしなければならないんですね。

「『御教え集』六号,講話篇第六巻p346~350」 昭和27年01月02日