昭和二十六年一月二十五日 地天30 「教えの光」(1)

--謹みてお伺い申し上げます。私の家は昔庄屋と称え、そうとう古くから屋敷内に柿の大木がありまして、大人四人にて抱くくらい、幹太く、背丈も高く、一里半くらい遠くから見える大木で、その中間くらいの高い所に、六寸ないし七寸くらいの洞穴があり、その中に水の絶ゆることなく、いかに旱魃厳しくとも水があり、常に一尺くらいの蛇が二匹棲み、ある神懸りの人が通り合わしたとき「オー、大きな蛇だ」と言ったこともあります。言い伝えには「屋敷の地主」だと言っておりました。

 いまから三五年ほど前に、この柿の木を岐阜から買い手が来て、いよいよ木を伐ることになりました。ちょうど二月ごろでしたが、伐ろうとすれば吹雪となり、三日間はどうしても伐れなかったのですが、無理やりに伐り倒したそうでございます。この木を切ってから後、二番目の兄は頭が狂い、病院に入ってからも暴れるので、手足を縛っておいたりしましたが、トウトウ狂い死にしました。三番目の兄も頭が悪くなり、ある日二階から転落し、頭が割れて死にました。

 最後に長兄は頭が狂いかけたとき、日蓮宗を信仰しました。そのとき、「これは地主の祟りだから祀らねばいかぬ」と言われましたが、真宗の信仰に熱心な母はどうしても承知せず、やむなく大阪在住の私の姉が、遠く大阪より祈念し、拝んでおりましたところ、一カ月ほどで治りました(その兄も五年前、脳溢血で死亡いたしました)。

 柿の木を買い取った材木屋もだんだん家業は思わしくなく、落ちぶれたそうです。

 大阪の姉は大和三輪明神の信者であり、私も信仰しておりました。「元柿の木にいた「地主」を祀らなければならん」と三輪講の行者(U先生)を連行し、私宅にて昭和一七年三月一五日に祀り込み、御霊鎮めの式をいたし、爾来、毎日家内中(私と子供三人)拝んでおりました。

 その後、昭和二〇年の一月か二月でした。I先生とM先生が私の家においでになりました。これがこの山奥の町に来られた最初でございます。そうして尊き恵みにより昭和二〇年三月入信、昭和二四年四月光明如来様、屏風観音様御奉斎、昭和二四年一〇月二〇日大光明如来様御奉斎、入信以来不肖な私ですが、幾十人かのお導きをさせていただき、もっか教師の資格さえも付与され、実にもったいないことと存じております。

 大阪の姉夫婦も入信しており、本年五月七日、光明如来様を御奉斎させていただきました。

 姉夫婦も始め入信しておりましても、三輪様の信仰のほうが熱心でしたが、昨年秋よりだんだん本教に熱心となり、今日までに一五人ほどお導きさせていただきました。前に三輪講の行者により地主の神を祀りし宮(大光明如来様の次の部屋)も毎月一五日教会の先生に来ていただき、天津祝詞を奏上、お祭りしておりましたが、その当時、上の先生から「大神様をお祀りしてあるのだから、祀らなくとも良い」と伺いましたので、昨年一〇月二八日に良く御挨拶をしお祭りして宮じまいし、当地の氏神様にお預けしました。

 しかし私も地主ということで、なんだか心残りがあり、大阪の姉は凄い反対でした。最近また姉よりふたたび祀るよう催促あり、私宅もこのごろいろいろと事情の浄化(特に屋敷の問題)がありますのでいまになって考えるにヤハリ祀るべきではなかろうか、と思われてなりません。ふたたび祀るべきでしょうか、それともそのままにしておくべきでしょうか、御垂示お願いいたします。

 住居の西南に池を造り、松を植えると良いと伺いましたので、本年七月に池のかわりに甕を埋め、松をまわりに植えました。もし祀るべきでしたら、左記の点につき御教示お願い申し上げます。

 (一)祀るべき位置、および小さき祠でよいでしょうか。

 (二)憑依すべき形はなににすべきでしょうか。

 (三)その後の祭りはいかようにすべきでしょうか。

 これは立派な龍神であって、ぜひ祀らなければいけない。祀る位置は前を池にして、二尺ないし三尺くらいの高さに、天然石を積み重ね、その上にお宮(屋根は雨の滲みないよう銅板を張る)を安置し、御神体は桧、剣尖形に造り、何々明神と書けばよろしい。大きさはその場所にちょうどいいくらいにする。向きは光明如来様のほうへ対うようにする。お祭りは毎月、月並祭の後、光明如来様よりも簡単に、お祭りすればいい。お供えものは生米、塩、お水、その他魚、野菜、乾物など、見計らって、お献げすればいい。

 お名前は、光明如来様にお願いすると、心に浮かぶからそれでよろしい。

「『地上天国』三十号、岡田茂吉全集講話篇第五巻p441」 昭和26年11月25日