昭和二十六年十月五日  『御教え集』三号 (5)

(御論文「弥勒三会」朗読)〔「著述篇」第一〇巻二九八-三〇一頁〕

御教え これについておもしろい話は、この間鎌倉の長谷の観音をメシヤ教で引き受けてくれないかという申し込みがあった。聞いてみると、観音さんの身の丈が三丈三寸という大きなものです。観音さんのお姿は小さいほうが良い。一寸八分が良いんですから、三丈三寸というのは大いに間違っている。だから、やりきれないことになる。そうすると、鎌倉の大仏さんより大きいことになる。大仏さんは座ってはいるがね。

 もう一つ間違っていることは石で造ってある。この間もそういう話があったが、どうしたら良いかというが、どうすることもできない。室内ではいけないからね。雨曝しになるわけですが、外というのは外国ということになる。観音さんは家の中でお厨子の中に入れるのが本当です。ですから、もし金無垢でできなければ、金箔を塗る。そうして小さい箱に入れる。ふつうは九寸が多い。木造のね。本当は尺八寸が良いですが、それを縮めて、半分の九寸でも良い。ほうぼうにある御本尊はたいてい九寸ですね。つまり一寸八分ということは弥勒さんですからね。観音さんは弥勒菩薩ですからね。おもしろいのはビルマですが、ビルマは仏教国ですが、あそこの本尊は弥勒菩薩になってますね。かえって、インドのほうはお釈迦さんで、ビルマは弥勒さんになっているんだからおもしろい。

(御論文「天国的宗教と地獄的宗教」朗読)〔「著述篇」第九巻五二九-五三三頁〕

 いま読んだ通り一番肝腎なことで、つまりいままでの世の中は苦しむことを良いとしてきたんですね。その結果人類は苦しみを楽しむということになった。いろんな宗教や精神の修養場というものの説き方は、苦しみを楽しめというように説いてある。病気で苦しみながら、ありがたいありがたいと言う宗教がありますからね。あれは苦しみを楽しむというんで、たいへんな間違いですね。だから世の中のいっさいはねじれちゃった。素直にありのままということはなくなって、おかしくひねくれちゃったんですね。そこでみんなありのままというわけですね。だから神様というのは、率直に感じたまま、見たまま……それが本当の神様の御心なんです。それを人間がいろいろにひねくれて、楽しく楽に行ける世の中を、わざわざヘンテコに……苦しむように作っちゃった。だから、信仰を一生懸命しながら、だんだん貧乏になったり、病人が絶えなかったりする。だから、言わばメシヤ教は宗教改革も一つの仕事になっているんですね。医学の改革やら、宗教の改革、農業も改革し、いろんなものを改革するんですね。だから、それが判りさえすれば、目が醒めたようにありがたくなるんですがね。なにしろ長い間ひねくれた文化が続いてきたんで、分からせるのに骨が折れる。安いものを食っていた者に、たまたまうまいものを食わせると、変に思ったりする。こういううまいものがあると言っても、そんなものがあるものかと言うんだから始末が悪い。

(御論文「医学迷信」朗読)〔「著述篇」第九巻五五四頁〕

 こういうことはどなたも始終あるでしょうからね。しかしこれだからやり甲斐があるんですよ。というのは、もしかお医者のほうで片っ端から治したら、こっちに来るわけがないし、また簡単に神様のほうがそういくわけがない。こういう人たちを済度して判らせるというところに、われわれの仕事があるんだから、あんまり簡単にいき過ぎても、張り合いがないし、こういうのでも厄介だし、これほどみんな分からなくなっているから、大いに救うべき必要があるわけだから、ちょっと考えても残念で我慢ができないのですがね。またよく考えれば、こうあればあるほど……判らないほど救うべき必要が非常に強いわけですね。

「『御教え集』三号、岡田茂吉全集講話篇第五巻」 昭和26年10月05日