御伺い 言葉と言霊について。
(一)こちらの発する言葉が相手を益する場合には嘘、怒り、泣き言の相槌などの言葉を発してもよろしいのでしょうか。
(二)神様からご覧になった場合の良否は判らなくても、自己の所信を表現する場合の言霊はどうなりましょうか。
(三)お世辞の言葉、虚勢を張るための言葉、あるいは自己を卑下する言葉はいかがなものでしょうか。
(四)言葉は簡潔なほうがよろしいと存じますが、時と場合により空気をやわらげるために、雑談、冗談などを言う場合の言霊はどのようなものでしょうか。
御垂示
(一)嘘はいけないがやむを得ない嘘もある。また昔から天下国家のために怒るのは善いが個人的の怒りはいけないとしている。怒りを行動にうつすことは勿論いけない。そうかといって怒りを抑えて精神病になる人もある。怒り、嘘もすべて臨機応変である。嘘にも善悪があって、いい嘘はよい。よく入信しないと救われぬというような嘘はいけない。神様のことはどこまでも真実でなくてはいけない。目的のために手段を選ばぬということは非常に悪い。泣き言に対する相槌はうたなければならない。慰めるわけだからで、しかしそれには限度がある。早く泣き言を打ちきるよう智慧を働かせるべきだ。
(二)神様のご覧になった場合といっても程度問題である。誠のあるほどいい智慧が出る。たいていは誠の心をもって常識的に考えれば善悪はたいてい判る。ただ大乗と小乗は逆の場合があるから注意すべきだ。戒律宗教は小乗で戒律によって悪いことを防ぐのは本当ではない。戒律がなくても悪いことをしないのが本当である。要するにこれも臨機応変である。
(三)これも程度問題で表面だけじゃかえって不快を与える。相手に快感を与える程度にするのが原則である。よくしゃべるのが下手で信者ができないと言う人があるが、話がうまくて信者ができるものなら講釈師でも頼んだほうがよい。むしろしゃべるのが下手な人に多く信者ができる。私は常に思うがユスリなどは実に話がうまい。それで効を奏するから、ますます弁舌が発達する。嘘が進歩する。誠の人はどうしても実行的で話は下手である。虚勢は嫌味である。人間はアク抜けなくてはならない。自己を卑下するのは下座の行である程度はよいが、卑下しすぎることはあまり感心できない。
(四)冗談もうまいのは大いによい。場面をやわらげる。人間は人を笑わすくらいに話術がうまくならなくてはならない。事務的なことは無論簡潔がよい。