昭和二十六年五月二十日 『教えの光』(浄霊および信仰)(12)

御伺い 神は浄化をくだし給うて御救いくださる反面、苦痛をも与え給うのは罪業の許しの意味でしょうか。また浄化と関連して死が与えられるということは、いかに考えるべきでありますか。

御垂示 罪業の払拭は苦痛によって行なわれるものと、神にすがることによって楽にすむ場合とある。前者は無信仰者の場合であり、後者は信仰者の場合である。

 神からの救いの綱が下っても、それをつかむことのできない人は罪穢が多すぎ、霊体が重くてつかむことができないのである。しかるにその後浄化のため、病気、災難などの苦痛が起り、それによって罪が減るから霊が軽くなり、救いの綱へ手が届くことになる。そのようなわけで、いくら良い教えを説いても、救いの綱につかまり得ない人は、その罪の減るまで時期を待つほかはない。そのとき無理につかまらせても落ちてしまう。しかし右の場合、浄霊を受ければ楽に早く浄化される。

 浄霊によっても死ぬのは、多くの場合心から神にすがらぬからで、その人の信仰のどこかに不純な点があることが多い。いっさいを擲って神にすがる人は不治とみらるる病もたいていは助かるものである。信仰の浅い人は危機の場合、迷いが生じやすいので、そのとたんに神の救いの綱が切れるのである。

「『教えの光』、岡田茂吉全集講話篇第五巻p347」 昭和26年05月20日