〔 質問者 〕(一)お道にある人で治病力がすばらしいのですが、どうしたことか、人格的にも、常識的にも優れていないと見受けられる節がよくあります。治病力が強いということは、その人の魂が清まっている証左であるとすれば、必ず人格的にも豊かであるはずです。このような場合、治病率は人格のバロメーターとなり得るでしょうか。不遜ながらお伺いいたします。
(二)私どもは、初め善いと思って行動したことが、結果において悪を招いてしまうことがしばしばあります。私どもの行動判断の規準はなにに求むべきでしょうか。
(一)これは難しい問題で、一口には言えない。古い人と新しい人では治病力が違う。また上面ではよい人に見えるが、心が悪い人もある。上面は善く見えなくても、心に誠の強い人もある。また治病力の多かった人でも慢心したり、取り違いしたりして薄くなる人もある。またその人の手柄によって神様からお蔭をいただく人もあり、よく見える人でも手柄のない人は御守護が薄い。
要するに、結果から見て、功績のある人は神様から力を与えられるが、立派に見えても功績のない人はその反対である。結局、人間の目で見ては判らない。心の底は神様よりほかに判るはずはないと思う人は、神様が判った人である。
(二)それは小乗の善だからである。どうしても大乗の善でなくては結果はよくない。この大乗小乗の意味は、御神書の随所に書いてあるから充分読みなさい。
「『地上天国』十八号、岡田茂吉全集講話篇第三巻」 昭和25年11月25日