昭和二十五年三月三日 『御光話録』十九号(4)

〔 質問者 〕人を尤めることと注意することとの相違(限界)はいかような心得をもって当たれば、御神意を汚さないでしょうか。

 これは限界もなにもありませんよ。人を尤めるってことはぜんぜんいけませんよ。それも警察官や裁判官ならいいですがね(笑声)。まず自分を尤めることですよ。どんなことでも人を尤めてはいけないんです。どんなことでもね。だから私は人を尤めませんよ。たとえその人が間違ってることをやっててもうっちゃらかしておくんです。勿論アッサリと教えることはありますよ。「そんなことをすると、こうこうこういう結果になる」って言ってやることはあります。けど、私の言ったことを用いるか否かはその人の自由であって、たとえ聞き入れなくたって、それ以上もうどうにもしかたがありませんよ。何某だってそうですよ、私は以前注意したことがあるんです。けど、あの人は私の言葉を守らなかったんですよ。やはり、その人が腹からそう思うんじゃなくちゃいけない。そうでなけりゃ駄目ですよ。よく言うんですが、石の落っこちるのを坂の途中で抑えるのは駄目なんです。下へ落っこちてから目が覚めて気がつく、それが本当なんです。

 こう言うと、愛がないように聞こえるかもしれませんけどね、しかしこっちのほうが本当の愛なんですよ。日本では子供が転ぶと、親がすぐ走って行って起してやるけど、西洋では子供が自分で起き上がるように言うってことですが、この西洋のやり方のほうが愛が大きいんです。かわいがって親切にするってのは愛が小さいんです。だから、その人の将来を本当によくしてやるのが本当の愛なんですよ。例えば、金のない人に金をやったってそんなのは一時的で駄目なんです。自分で苦しんで、たとえ破産したっていいから、そうやったあげく自分で覚るのが一番いいんです。そしてそうするのが大乗なんですよ。

 そこで、人を尤めるのは一番いけない。人間が人間を尤めるのは神様の地位を犯すことになるんです。人間なんてみんなポチポチなんだから(笑声)。人を尤めるなんて慢心ですよ。だから中には尤める人より尤められる人のほうが霊的に上位のことだってよくあるんですよ。(笑声)

「『御光話録』十九号、岡田茂吉全集講話篇第三巻」 昭和25年03月03日