昭和二十四年七月三十日 講話(1) 光録09

〔 質問者 〕入信しても邪神の虜となり、また熱心な信者でも邪神に引かれる傾向があるように存じますが、このようなところでの教導師の心得について御教示をお願い申し上げます。

 これはね、邪神に負けるとか、引かれるとかいうこの人の心が間違っているんです。邪神かどうかってことは人間には判らないんですよ。神様でないと判るもんじゃないんです。だから、こんなことを言う人は神様の地位を冒してるんです。つまり「裁いている」んですね。キリスト教の『聖書』にも「裁く勿れ」ってあるでしょ、それですよ。邪神が憑いてるかどうかってことは決して人には判らないんで、かえってそういうその人があるいは邪神かもしれない。だからこんなことは絶対に言っちゃいけないし、また言えないんです。こんな人は、自分の気に入らない人はみんな邪神にしてしまうもんですよ。ところが邪神だなんて言われる人で、馬鹿にいい働きをする人もあるものです。まただれが見てもいい人であっても、実は反対のこともありますしね。だから神様でなければこういうことは判らないんですよ。

 神様はいろんな人を使われますからね、芝居と同じようなもんで、善人ばかりでは芝居にならないんです。そして、しんからの邪神と、邪神に憑かれている人とは違うし、それから邪神の眷族というのも何十万、何百万となくいるんです。つまり、主神の下に陰陽の神がこういうふうにあるんです(お煙草三本での形をお示しになられる)。こっちが善で、こっちが悪ですね。そうしておいて地上の経綸をなさるんです。だから「主神に善悪なし」で善悪無差別、正邪一如って言いますがね、ほんとに正邪が判らないんです。
 ところが、これいっぽうだけじゃまたいけないんで、はっきりと厳しく、善をすすめ、悪をしりぞける面もなくてはいけない。そこで観世音菩薩っていうお方は悪を咎めず、善悪無差別に救われるんですが、観音様の御本体の国常立尊は絶対に悪は許さないんで、閻魔大王ともなられて審判をされるという厳正至直な神様なんです。つまり経ですね。観音様の善悪無差別のほうは緯ですよ。そのいっぽうだけに片寄るとしようがないんです。この二つの面がなくてはならないんで、時と場合、そして相手によって千変万化して行くんです。

「『御光話録』九号、岡田茂吉全集講話篇第二巻p184」 昭和24年07月30日