〔 質問者 〕用達をしてから教導所へ来る人には出直して来なければしてやらない、という方もありますが……
それが本当です。お詣りに来るのは一番先にすべきであって用達をしてから来たんでは効果が少ない。だからそれではつまらないですよ。やはり神様のことが主なんだから、主となることと従となることとははっきりしなければいけないのです。
〔 質問者 〕ではお道、順序ということは固く言うべきでしょうか。
ええ、言わなければいけません。理の立つことなら言っていいんです。……それから私は家内なんかに対してもそうなんですが、先方で浄霊をしてくれというとき以外はしてやらないのです。その代わりしてくれと言えば夜いったん寝てからでもまた起きてしてやります。神様にお願いするんでも足を運ぶべきです。だからこっちから押しかけて行って押し売りするのはいけないのです。希望もしないのに無理にするのは神様と人間との位置が転倒してしまうのです。またこういうことがあります。「この病気が治ったら御礼をする」と言う人がありますが、これも反対で、これでは神様が下になってしまうのです。つまり、神様のほうで治させていただいて御礼をいただくということになるのです。(笑声) 天理教は上げることをさかんに言うが、天理教自身に力がないため病気などが治らずそのため一種の詐欺になるんですが、これは神様が悪いのではなく、取り次ぎする人が効かないのに効くと人に言うから悪いのです。だからもし効かなかったらその金を返せばいいんです。で治らなくてかけ合ったりする話をよく聞きますが、しかし順序から言えばそれが本当で、神様のほうを主にすべきです。……親切はどこまでも親切にすべきです。実際問題としてはそうどこまでも親切にはできないが、事情の許す限り親切にすべきですね。
それからまた、人に対しては公平でなければならない。あの患者は金があるから親切にしてやろう、あの人は土百姓だからあまり親切にしてやらない……というのではいけません。以前使っていた女中は、「他の人は自分の話を聞いてくれないが、大先生だけは私の言うことを聞いてくれる。これが一番ありがたい」と言ってたことがありました。大本教の教祖にある人が「あなたはどの人にも同じように応待するが、あなただって人により好き嫌いはあることと思うが、見ていてちっとも判らない」と言ったところ、教祖は「勿論好き嫌いはある。しかし神様は公平なんだから神様のことをしているとき、好き嫌いを表わすことは間違いである。だから私はそれを表わさないようにしている」と言ったことがありましたが、なかなかいい言葉ですね。