昭和二十三年十二月二十八日 御講話(9) 光録(補)

 〔 質問者 〕利己主義者が悪宣伝、悪行為をなした場合、それを見逃してやっては、その人に対し無慈悲でもあり、また他面、社会的には悪の風習を助長することにもなると存じますが、その場合、慈悲または正義はいかに行使すべきでしょうか。

 これは信仰のない人が考えることです。神様が人を使って悪宣伝をするのかもしれないのです。今度の税金の問題も私は邪神かと思って神様に訊いてみたら、そうではなくて神様がやっておられることが判りました。だからあれによりかえっていい影響があっちこっちで来てるんです。いままで迷っていた人もどんどん入ってきている。だから信仰のある人ならこれ(お伺い事項)と反対になっていいはずです。悪を助長すると言っても人間が抑えたりすることはできないんです。それよりも自分の悪、自分の間違いを訂正することです。人の悪なんか訂正することはできない。人をどうしたいという希望はいいが、行為によってどうするということはできないのです。……物事にはその物と事と大小などによって、やるべきこととやってはいけないこととあるのです。やれと言うとやりすぎるし、やってはいけないと言うとぜんぜんやらない。味でもそうで、砂糖が少ないと言えば甘すぎてしまい、甘すぎると言えば今度は辛すぎてしまう。ちょうどよいというのは難しいのです。だからその程度をよく考えることです。それが智慧です。神様にお任せすると言っても、お任せすることにも程度があるのです。人事を尽して天命を待つということがあるが、これはいいことです。人間としてすべきこと、できることをやって、その先は神様にお任せすべきです。だからそれは時所位に応じて変わってくるものです。やはり実篤の言葉に「神の如く強く神の如く弱し」という言葉がありますが、いい言葉ですね。神様も強い場合もあり弱い場合もある。観音様でも馬頭観世音は火焔を吹いて目はランランと輝いてます、が、これは畜生道を救うお働きを表わしているのです。いろいろなことをうまく使うところに智慧があるんです。一番効果のある方法がいいのであって、これをみつけるのが智慧です。

「『御光話録』(補)(年代不詳1951頃)、19481228、岡田茂吉全集講話篇第一巻p」 昭和23年12月28日