昭和二十三年十二月二十八日 御講話(6) 光録(補)

〔 質問者 〕レオナルド・ダ・ヴィンチはいかがでしょうか。

 偉いですね。あの人はちょっと違いますね。日本で言えば聖徳太子ですね。しかしあの人はそれほど不幸ではないでしょう。たいへんな宗教家であり、芸術家、預言家、発明家ですね。私はあれに似ているところがあるようにときどき思います。絵だって立派なもので「最後の晩餐」や「マリア」は実によく描けてますね。飛行機の原型や潜水艦なんかもあの人が発明してますが、ともかくすばらしい天才ですね。ダ・ヴィンチをアメリカで言えばエジソンみたいな人ですね。……芸術家はなかなか複雑でその性格なんかこうとはっきりは言えません。北斎は貧乏していたし、尾形光琳は金持ちの息子でその作品にも豪奢な風が現われてますからね。

 芸術家は人格的にどうかと思われることはありますよ。雲右衛門は浪花節を今日のようにした人ですが、ところがあれくらい不道徳な人はない。あれの師匠は浪花亭重吉と言ったが、雲右衛門は重吉の細君と関係して二人で逃げたのだが、これは不道徳きわまりないことです。弟子が師匠の細君をとってしまうんですから。で、東京にいられずに大阪へ行き、それから九州へ行って、琵琶をとり入れて雲右衛門節というのを作ったのですが、重吉が死んだのでそれから東京へ帰って来たのです。だから人格と芸術とは伴わないことがあります。雲右衛門の節はうまいが私は大嫌いです。おもしろいことはほかの浪花節は私は大好きです。というのは人格が芸術を通してみんなに働きかけるからで、雲右衛門を好む人は人格が堕落します。それは声により霊線がみんなに働くからです。下村観山から聞いたことですが「絵は人格を筆と絵具で表わすものである」と言ってましたがその通りです。いままでは本当に人格を通して芸術をみんなに伝えることがなかった。これから人格者が出るわけです。観音教団からすぐれた芸術家が出るでしょう。……しかしなんですね、人格者というとふつうは道学者流に一夫一婦で酒を飲まぬ人というふうに考えがちですが、この考えは小乗であり、大乗的には、ダラシのないような人でも人格者はいます。武者小路実篤は妻がありながら地方から出てきた娘に恋をして(ついに一緒になり)妻を不遇にした人です。また島村抱月も人格者ですが、ただ単に表面だけ見ると不道徳者です。抱月の妻は私も知ってますが、オカミさん型で芸術や文学なんかにはまったく理解なく、主人がきちんきちんと月給でももらってくるような平凡な生活を喜ぶ人なんです。だから抱月とは丸っきり合いっこない。二人一緒では両方ともに不幸です。そこへたまたま松井須磨子が現われて二人が共鳴するのもやむを得ないことです。『真実一路』の映画を見ましたが、あれにもそんなのが出てますね。一番いけないのは、女さえ見れば手を出して享楽の道具にすることです。これが非常にいけないのです。が、抱月や実篤の場合はそうは言えない。これは大乗です。

 〔 質問者 〕そういう場合罪になることは?……

 須磨子は罪が軽いですね、主人もないのだから。その代わり抱月は罪になりますが、しかしそれを償うことをすればいい。……政治でもそうです。小菅へ行ってる代議士でも大臣になるには金も使わねばならない。清廉潔白では絶対当選はしないですよ。いま本当に道徳的に罪を作らぬような生活をするためには山奥へ行って木の実か草の根でも食ってなければなりません。いまの世の中はそうなんです。汚れきってる。だから私がやってきれいにする。そのために宗教が必要なんです。世の中がよくなったら宗教もいらない。

「『御光話録』(補)(年代不詳1951頃)、岡田茂吉全集講話篇第一巻p」 昭和23年12月28日