昭和二十三年十二月一日 御講話(6) 地天01

〔 質問者 〕人類にはいかなるわけで悪があり、苦がありましょうか。

【 明主様 】 これは人類を造った神様でなくては、造られた人間では判り得べくもない。私も造られた人間であって造ったほうではないからその真意は判らぬが、ただおよその想像はできるわけで、無論なにかの必要があって、そういうふうに造られたものと思う。

 元来主神は全宇宙そのものがその御所有物であって善も悪もないが、『神典』にあるごとくその主神から分かれて霊系の祖が高皇産霊神、体系の神が神皇産霊神となられた。これは陰陽の神であり、陽陰はすでに善悪である。そして悪に属する神を邪神、善に属する神を正神という。この善悪が始終摩擦し争闘しつつ、人類は生成化育し今日のごとく輝かしい文化の発達をみたのである。この点が人間としての考え方の難しいところで「悪人を造っておいて裁くなら初めから造らなければいいではないか、審判などといって人間を悪いことをするように造っておきながら、罪を罰するとは無慈悲不合理だ」と言う人もあるが、私としても造られた側に立っているので神意を知り得べくもないが、なんのために悪を造られたかの想像はつく。それはたしかに悪によって善が活動し文化が進歩を遂げたという事実である。

 しかしながら人間として悪いことをすると悪い結果が必ず来る。すなわち因果応報で、これは間違いのない事実であり、真理である。どんなにしても善でなくては栄えない。

 人を苦しめれば自分が苦しむ。人を幸福にすれば自分が幸福になる。そうすると善いことをしたほうが得だという結論になるから人間は善事を目標としなくてはならぬ。

 次に苦しみもなにかの必要があって造られたもので、現実の苦はいかにして祓除し得るかである。それは神から苦悩の元たる曇りを除っていただくほかはなく、神仏の光によって除ってもらうのである。観音教団の浄霊はそのためにできたもので、この浄霊により神の光が放射され曇りは解消し、苦悩はさっぱりと除れるのである。そうしてこの曇りは信仰と徳の程度により、大きくも小さくも除れるのである。邪念や言葉の罪などは朝夕神仏を礼拝することによって大方は浄められるがそれのみでは本当でない。やはり人を幸福にすることが肝要で、信仰は拝むのみでは本当に救われぬ。まず多くの人に喜びを与えなくてはならぬ。

「『地上天国』創刊号、岡田茂吉全集講話篇第一巻p」 昭和23年12月01日