昭和二十三年十一月二十八日 御講話(2) 光録(補)

〔 質問者 〕個人的または団体的悪宣伝に対し私どもは宗教人として、よい宣伝をもってこれに報ゆるべきでしょうか。

 間違ったことに対する説明はいいですが、うっちゃっておいたほうがいいです。それに災いされて萎縮するようでは駄目ですよ。悪口を言われるのは結構です。悪口は浄化で、それでこっちの罪が消えるんです。

 〔 質問者 〕悪い宣伝の結果悪い支障が次々起ってくる心配がありますが……

 起って結構です。これはいままで言われていたことと反対です。……大森時代私は人から悪口を言われると笑ったものです。大本のお筆先に「悪く言われてよくなる仕組」とありますが、いいことを言ってます。いろいろな宗教がありますが初めからよく言われた宗教はありません。世界的に広まっているキリスト教だって初めは十一人しか弟子がなかったし、しかもキリストが死んで一〇年くらい経ってから心覚えを書いた、それがいまの『聖書』なんです。それからだんだんに広まってきたんです。釈迦だけは違うがあれはインドの皇太子だったからです。天理教の中山みきだって二十何回留置場に入れられ、四回検事局送りになったのです。ともかく最初は悪く言われるものです。もっともいまでも天理教を悪く言う人はありますが。

 〔 質問者 〕悪宣伝に対して言い訳をすることはいかがでしょうか。

 いけない、いけない。言い訳を言うようでは野暮ですよ。悪口を笑って通せれば一段できた証拠です。なにか勝負事のようなことでも負けたほうがよい。勝った場合には「あいつは負けたんで俺を怨んでやしないか」などと思うが、負ければこんなことはない。だから結局人間は怨みの霊の来ないように、感謝の霊の来るようにすることが肝腎です。決して人の怨みを買ってはいけない。これくらい霊的に損をすることはないんです。

「『御光話録』(補)(年代不詳1951頃)、岡田茂吉全集講話篇第一巻p」 昭和23年11月28日