昭和二十三年十一月八日 御講話(6) 光録(補)

 〔 質問者 〕お弟子方が、ああなればよいとか、こうなればよいのだが……というふうに考えがちですがこれも執着でしょうか。

 それは信仰がないからだ。神様を信用してないからです。すべて神様がやっておられるんですからね。……

 神様にお任せするという気持ちになるのにはよほど修行がいるんですね。どうも人々は人間的に考えては苦しんでいる・ん・ですよ。私は問題に面して適当な案がないときは神様にお任せするのです。……また他の人がしたいということは間違っていてもやらせてしまうのです。それはやりたいと思っているとき注意してもなかなか悟れない。行き詰まって初めて気がつくのです。車でも坂を下りるとき坂の途中で止めようとしても止まらない。下まで行ってから止めればじきに止まるのと同じです。

 〔 質問者 〕その、坂の途中にあるのか、下まで行きついたのかはどうして判断いたすべきでしょうか。

 それはじき判りますよ。下まで行ったとき気がついて自分で苦しみますから。神様のほうだって「俺にそんなに任せるんならちゃんとしてやろう」ということになるのです。

「『御光話録』(補)(年代不詳1951頃)、岡田茂吉全集講話篇第一巻p」 昭和23年11月08日