昭和二十三年九月八日 御講話(2) 光録(補)

 〔 質問者 〕翌日同人が私の教導所へまいりましたので御浄めいたしますと泣き出しましたが、じきに治り私と一緒に御軸に善言讃詞をお上げし「夜叉龍神も……」のところへきますと男の声になり「国と国との……仁慈の御胸に抱かれん」のところはものすごく大きな声になり「大光明如来守り給へ……」のところも大きくなりました。そして気持ちよくなり便所へ行くと言って二、三歩踏み出したら倒れて霊が出まして「私はここの家へたびたび来る〇〇というものだ。先生もよく知っているはずだ」「自分はこの人を連れて行かねば仕事に差し支える。もともとこの人が好きだった」そこで「悪いことだから止めるように」と申しますと「悪いことは百も承知だ」「それでは自分はこれを連れて死ぬ」と言うので「それはいけない」と申しますと「僕の負けか」と言って足のほうから出て行きました。この〇〇という男は生きているかどうかと思い、それとなく下宿を調べますと元気で学校へ通っておりました。

 ほー生霊がついたんですね。……信仰の線に入るということは神にお任せすることです。人間的な考えもいいが、それもある程度までです。 一般に神に任せるという気になる人が少ない。 心配事などあると私は「神様にお任せしろ」と言うのです。神にお任せする気になれば信仰の門に入った証拠であり、それで安心立命を得られるのです。またお任せすればうまく行くのです。神様としても「俺をそんなに信頼するのならよくしてやろう」と思われる。昔から「仏の心は凡夫の心、凡夫の心は仏の心」と言われるように、神様だってある程度は人間と同じです。形だけの信仰はいけない。つまりさ、一人でも多くの人を救えばいいんです。いよいよ最後の時に来ている。できるだけ人を救わなければいけない。

「『御光話録』(補)(年代不詳1951頃)、岡田茂吉全集講話篇第一巻p」 昭和23年09月08日