〔 質問者 〕御浄めにより善人と思われる人が助からぬ場合があるのに、まったく悪人としか思えぬ人でさえも助かる場合がありますのはいかなる理由でしょうか。
人間が見て善人とか悪人とかきめるのであって、神様がご覧になると違うんです。小乗で善人でも大乗で見れば悪人になることがたくさんありますよ。なぜなら本当の善人は少ないのです。ふつうの善人とは意気地なしでしょう。世のため神のため大いに働きのあるのは悪人に見られがちです。大善は小悪を伴い大悪は小善を伴う。その場合小悪の面を見ると悪人に思えるのです。例えば私のこの道が発展すれば医者は私のことを悪人呼ばわりするでしょう。これはしかし、しかたのないことです。悪人から見れば世の中の善人はすべて悪人ですよ。なぜなら悪人のすることの邪魔をしている。善人といってもいろいろあります。意気地のない善人や、功利的に人の信用を得んとする善人もある。こんな善人には悪への憤激がない。この悪に対する憤激はなければならないものです。が、これがあると悪人に見られがちです。……善悪というものは時代で異なるのです。いまから見れば、忠君愛国なんかはたいへんな悪ということになります。非常な間違いです。日本が忠君愛国をやり、支那人や朝鮮人もそれぞれ支那や朝鮮のために忠君愛国をやったらたいへんなことになります。よくいわれた皇道なんかも共産主義より下です。なぜならロシアへ行って皇道を宣伝しても広まりはしないが、日本に共産主義は広まっているんですから。忠君愛国や皇道は小乗の善であり、世界的に見れば悪です。一国や一民族がよくなるのでは悪です。世界中の全部の人がよくなるのが真理であり、全人類が幸せになることでなければ駄目です。御浄めで生命が助かるか否かはいろいろと原因があるのですよ。
「『御光話録』(補)(年代不詳1951頃)、岡田茂吉全集講話篇第一巻p」 昭和23年06月08日