身体の一部に病気が起るとする。これは汚毒を排除しようとする為の症状で、それを溶解する為の熱である事は、充分お解りになったと思います。しからば、その熱は一体どこから出るのかというと--、
身体自身から熱が出るとすれば、平常身体のどこかにその熱の貯蔵所がなくてはならぬ筈で、その貯蔵所は常に火の如に熱くなければならない。ところがそういう所は全然なく、病気になるとどこからか出て来る。実に不思議であります。しからば一体何所からどうして熱という素晴しい膿結溶解作用が出て来るかという事でありますが、この最も肝腎な事が今日まで更に判っていないのであります。
三界の説明にもある通り『霊界は太陽熱』即ち火素が主となっております。この火素が発熱の素なのであります。即ち、熱を要する場合心臓は旺んにこの火素を吸収する。その吸収旺盛の為に鼓動が激しいのであります。又、心臓が火素を吸収せんとする時寒気がしますが、あれは病気治癒に要する熱を取る為に、身体全部への必要量の吸収を一時停止するからであります。
次に、痛みというものは何であるか、吾々の方の解釈では毒素の排除作用が神経を刺激するのであります。
故に、排除しようとする活動力が旺盛であればある程--痛みが激しいのであります。ですから痛みがある程--治る工作が迅速に進んで居る証拠であります。故に、熱があり、痛みがあれば、その時こそ最も旺んに治りつつあるのであります。
したがって、この場合解熱法を施しますと、熱という溶解作用が停止される。即ち治るべき作用を停止されるから一時苦痛は楽になるが病気の治癒は遅れる事になるのであります。
しかし、衰弱している人でも、割合高熱のある場合もありますが、これは病気の方が強過ぎるのであります。又、病気があっても割合熱が出ないのは、その病気が割合軽い場合か、又は第一種健康体の人で、浄化力が特に旺盛だからであります。第一種の人は熱を必要としない程に浄化力が強盛であります。でありますから、あらゆる病気は苦痛でない限りは身体を活動させて差支えないのであります。それは安静にする程活力が弱まり、したがって、発熱が減少するからであります。例えば、肺病の治療は日本では近来--絶対安静療法を採って居りますが、これ等は反対に運動をすれば活力が起って、浄化力は旺盛となり速く治るのであります。近来西洋でも、仕事をしながら治すという事を聞きましたが、私の説と同じでまことに喜ばしい訳であります。
これ故に、熱と痛みなるものは、治病工作上悪い意味ではないのであります。