彼の明治維新は、鎖国の夢を醒して一大転向を吾等の国にさしたのである。それは言う迄もなく、西洋文化による一切の革新であった。しかもそれは、六拾余年を閲した今日、最早一段落となった事は余りにも瞭かである。であるから、無差別的に模倣や吸収をして来た西洋文化の再認識と、その清算をしなければならない時が来たのだ。それは役立つ物は残し、役立たないものは捨て去る事なのだ。そうして、その帰結としての世界各国の長を綜合して、ここに新日本文化の創造課程とその拡充に驀進(ばくしん)しなければならないのである。そうして、その鋒鋩(ほうぼう)は既に現われかけている。見よ、産業の躍進もその一つである。文教の日本化も、政治的革新も皆、その顕れのそれでなくて何であろう。
しかしながら、飜って我建国以来の歴史を覧た時そこに何ものを見出すであろう。
類例無き万世一系の君主を仰ぐ、国民の忠勇義烈の特殊思想は勿論、支那文化も、印度宗教も、日本化して、否、日本に依ってその生命力の発展と完成を見たのは、余りにも顕著である。これ故に、今日も、これからも、躍進日本の動向の主因は、三千年間に培われた日本文化によるのであって、やがてそのの華が咲き実がなるのである。
所在文化形態が日本的に芽生えようとする今、人間の生命を把握している、絶対者ともいうべき医術そのものが革命され、新生しても可い訳である。然しそれは、只それ丈の理由でもない。それよりも西洋医学の余りにも無力であるという理由も勿論である。
今にも難症が解決出来るかの如に曰い、今にも生命の神秘が白日に晒し出さるるかの様に新発見を発表する。又、新薬や新治療が、救世主のように、次々現われかけては、亡霊の如うに消えてゆく。人々は夫等の科学的美辞に幻惑されて、自分達の生命は今にも科学力で解決される様に思ったりする。
現代人の眼は、大方は近視眼になっている。それは、目前の物しか視る事が出来ない症状だ。だから近視眼では、科学のイミテーションは解る筈がない。視よ、弱体児童の激増や嬰児の死亡率と、眼鏡使用者が世界一だという。それで医学は進歩したというのである。
結核患者も、脳溢血も、神経衰弱も、絶望的数字にまで進んでいて、それで、医学は進歩したというのである。
精神病院は現在患者の十分の一しか収容出来ないそうだ。新聞紙の広告欄は薬の能書で一杯である。新興宗教は治病丈で信者を獲得している。それで医学は進歩したと謂うのである。
医学博士で灸治療をする者が段々殖えるそうだ。又、掌療法専門の博士も有るという事だ。それで、医学は進歩したというのである。
皮下に在る膿一滴と雖も、メスか針で皮膚に傷を付けなければ、除去出来ない現代医術である。そのような医術で、人間の生命を解決しようとするのは、ロケットで月世界へ往くより困難であろう。又、薬剤で病気を治そうとするのは、ロボットに恋愛をさせようとするのと等しいものかもしれない。何となれば、薬剤は苦痛の緩和は出来るが、病気治癒力は、絶対有り得ないからである。
科学的医療と、インチキ宗教に、生命を託さなければならない時代の人間程、不幸な者は有るまい。この時代こそ実に病者氾濫時代である。にも係わらず、医学は進歩したと思込んで、医療に満足し切って何等疑点を挿まない盲目さである。まことに悲惨そのものである。
吾々は、この様な現代医学に生命を委ねて安心出来るであろうか。勿論、科学の恩恵は素晴しい、最大級の感謝を捧ぐるも足りない事は識っているが、人間の生命だけは科学の範囲外に置くべきものである。
新生さるべき日本文化とは、科学のみでない。精神と科学、霊肉両全の、否、霊が主たるものでなくてはならない。勿論、医術も殊に霊が主であるべきだ。それは、生命力を復活させる力は霊が基本であるからだ。無論、宗教的や観念的でもない。実に科学的でも、宗教的でも全然ない。新しさと完成が在るべきである。
そういう完全医術が、日本に新成されてそれが世界へ拡充されて、白人も、東洋人も、黒人もが、均しく恩恵を蒙るという、その時期が来た事を私は信ずるのである。そうして病無き時代は創造される。病種は漸減し、病院は次々閉鎖されてゆく。医師の数も、死亡率も、漸次減少するのは勿論である。
この夢にも等しい医術が、日本文化の根幹をなすであろう。それは、西洋文化が、日本の長夜の夢を醒ました時も、医術がその先駆をなしたように、今や、新生日本文化は、赫々として、旭日のように、西へ西へと光を拡げてゆくであろう。 (昭和十一年四月十五日)