昭和十年十一月二十一日 御講話

 いつもお話する通り、観音運動は病気治しが根本でありまして、宗教が病を治すということにつき、世間は未だはっきり判っていない。これは無理のないことで、いままでの宗教は病気を治さなかった。キリスト教などほとんど治さない。最近では天理教などもそうとう治したが、近ごろは治さぬ。いままで多数の宗教によって治したのは、実はお説教や御祈祷で治すのもあり、治したんではない。

 天理教あたりでも、半日くらいもいてありがたい神様の話して、日蓮の行者その他の祈祷者などが、汗水垂らして神仏に祈願する。それで御利益をいただき治るという順序になっており、仏立講など病人があると、何人も寄り合って汗水垂らして話す。ひとのみちなどのお振替などのごとく、教祖がなり代わる。これも霊的のもので、生長の家などで、本を読めば病気が治るという。これも一種のお説教で、これは文字によるお説教ですが、赤ん坊や文字の読めない人には駄目で、ごく狭い範囲のもので、で、いっぽうは霊的であり、いっぽうは体的ですが、観音様はやはりどっちへも片寄らぬから、手を使って押したり、擦ったり、吹いたりですから、霊的でもない。そうかといって、薬や機械など使わぬから体でもない。どっちへも片寄らぬ伊都能売式で、こういう治し方はいままでに絶対なかった。これを世の中の人が知らぬから、医学以外に治すことを一種の観念療法という。で、そういう観念で治るんでないことを大いに知らさなければならぬ。

 も一つは観音会で大いに言いたいことですが……
「観音治病力は観念療法ならず」(御発表)

 結局はここまで行って、西洋医学で治るか、観音力で治るかというところまで行かなければならぬ。
「観音力療法は一切の病気治しなり」(御発表)

 いま読んだように、いっさいが病気になっている。で、いっさいの病気を治すのが観音会で、先刻の話の貧乏も、これもやはり病気ですから、貧病とでも言ってもよい。貧病のほうはそうとう手間がかかる。肉体の病気にも原因があるように、貧病も原因がある。ですから、貧乏も日本式健康法と観音行でやればよい。ただ難症は手間がかかるんであります。そういう経済病のことは既往をよくさかのぼると判る。それを早く改正して、観音行をすればよいのであります。

 観音行について、病気を治すのは霊に偏るか体に偏るかですが、いままでちょうどいいというものはない。あらゆるものが偏っていた。これが大きな世界のことばかりでなく、一個人のことでも偏ると行き詰まる。どっちも偏らなければ開けて行って、順調に行くんであります。

 私は、いつも柿を食いながら思うんですが、樽柿の一番甘いのは、柔らかからず固からず、というのが一番いい、甘い、あそこに観音行があると思う。気候でもいいのは春と秋で、物の味でも甘からず、辛からず、というのが一番よい。私はよく台所から聞かれるが、味はどんなくらいがいいかと言うが、いつもちょうどいいところがいいと言う。そのたびに言うので、このごろは聞かなくなった。すべて言葉でも、話でも、日常のことでもすべて同じことで、あまりしつっこくては嫌で、また簡単でも判らぬ。ですから、しつっこくなく簡単でない、ちょうどいい言葉がいい。

 場合により、人により、時により、いろいろに合わして行けば決して行き詰まらない。そういうようなやり方や教え方はなかった。これは観音様が出られなかったためであります。

 阿弥陀様は絶対他力だし、お釈迦様は自力で、自分の力だけ頼ったり、阿弥陀の力だけ頼ったりする。ちょうど、その間がなかった。その間が本当の真理で、これによりすべてがよくなる。

 いままで何事があっても、情に捉われたり、理屈に走り過ぎたりしたが、情も加味し、理屈も立たねばならぬ。そこに言うに言われぬ味がある。そこが観音行で、もしも物がうまく行かなかったり、金がうまく入らぬとかいうときは、必ずいっぽうに片寄ったところがあるに違いない。ですから、ちょうど頃合を行けば行き詰まらない。右か左かいっぽうへ行けば、必ず行き詰まるに決まっている。いまは右がよいか、左がよいかになっている。右にもよく左にもよくという、その間がない。その間の運動が観音運動で、これより他にはない。これをどこまでも実行して行けばよい。

 信仰もあまり熱心ではいけない。カンカンでもいかぬが、ぼんやりでもいかぬ。馬鹿に一生懸命やるかと思うと、すぐしなくなるんではいかぬ。まじめにコツコツやるのがいい。どこまでもそれでやるのがいい。これが観音信仰の真髄であります。

 男でもなく女でもなく、また男であり女でもある。両方へみな観音様はかかっている。これが観音様のお働きを表わしたもので、どこまでも、これを本位で進まなければならぬのであります。

「岡田茂吉全集講話篇第一巻p153」 昭和10年11月21日