昭和十年八月一日 御講話

 紫苑会文芸は忙しいため、毎月の会は二、三月前にやめたんですが、出す方が非常に少ないんで、雑誌を発行するだけの歌が集まらぬから、当分紫苑会は休会いたします。そういうことに骨を折るほどの余裕がない。いずれ将来文芸の講座をする。そして、歌の先生を頼み、何回かに渉って講習してもらって勉強するように改めるつもりです。そして、今度は改めてうんとやりたい。それまで『紫苑』の雑誌の発行はやめます。そして冠句だけ続けてやります。冠句もいままでとはちょっと違い、笑冠句にして滑稽的に読むことを奨励するつもりで、大いにお祭りのときは笑って天国気分になればいい。おかしくさえあればいい。大いに笑うという意味で出していただきたい。

 お話の前に、指圧の講習をはじめた方に、御注意しておきますが、ここで一週間講習されただけで、いきなり病人を扱うことは破天荒な話で、知らない人はびっくりする。それでも観音力ですから、人間の想像もつかない力が出る。しかし最初に重病人を扱うと、そのためにほかの方の宣伝ができなくなることがある。もし間違えて死んだりなどすると信用にかかわることとなる。熟練してそうとう年限のかかった人はいいとして、できるだけ生命にかかわるような人は扱わないよう、生命にかかわる病人は、お医者にお任せしたほうがよい。重病人でなくとも、到る所に病人はあるのですから、そこを要領よくやってもらいたい。そうするうちにだんだん実地にぶつかって行く。そして間違いなく安全に修業ができて行くわけであります。

 私はこの間警視庁に呼ばれ、講習のことにつきいろいろ聞かれた。先方で言うには一〇年も二〇年も正規の学校を出てさえ、なかなか病気は治らぬ。医者は病気を治すものではない、療養手当てをするだけのもので、それをなんで一週間くらいで治るものかと言う。そういうものを出されては困ると言うのです。これは第三者としては無理はないことで、なんとかしてくれと言うので、なんとかすると言ってきた。

 それでだいたい講習を三月とする。一週間はいままで通り実地を見学し、後はお医者を頼んで生理衛生などの講義をしてもらう。毎月三の日くらいを夜だけ二、三時間講習してもらう。それについて今晩おいでの方々で、そういう適当な人がありましたら、世話してもらいたいのであります。その月に三度で三の日の夜だけ、手当てのようなものを充分差し上げるつもりであります。で、そういう方があったら御相談したいと思う。お心当たりあらば至急お申し出で願いたい。博士などでしたら顧問の名義でやりたい。だんだん拡がって行くにつれて、警視庁辺りでも見る目もたいへん違うと思う。どうか、これを心掛けていただきたい。

 指圧の御守りは一時でなくとも一〇〇円となっている。これもたいへん高いと言うのです。なにから割り出したかと聞かれたんですが「これをやれば飯が食えるからだ」と言った。すると、「それはいかん。それがはやると医者へ行かないものがたくさんできるのはいかん」など、いろいろ理屈を言うのです。それで、第三者からみて悪いですから、名義上ただであげることにし、それで観音運動の観音力のお蔭はたいしたもんだと知らしむべく、お蔭でそういう金を観音運動の基金のつもりでやってもらいたいのであります。

 今晩の御讃歌ですが……。御讃歌は観音様から出るんですが、その時に応じた歌が出る。今晩の歌の具合でみると、観音様は信者の方の行いがお気に入らぬらしい。それですから、それに適切の歌が出る。この前の分は一首が二分くらいにもつかなかった。この歌が出てなるほどと思ったんですが、観音行についてお話しようと思う。
天地の諸の動きの狂ひなきは観音行の鏡なりけり

 天地自然の運行、あらゆる森羅万象の動き、これが観音行の亀鑑ということなんで、そういうように、物の狂いがなくなるようにならなければいけない。物事がうまく行かないのは、必ずどこかに狂いがある。時計と同じで、時計が正確に行かぬのは、どっかに狂いがあるんで、うまく行かぬのは、自分の動き方にどこか間違いがあるからうまく行かぬ。

 指圧についても一つ注意したい。病人を扱って二、三度やっても効果がないと思ったときは、病気が重いんですから本部へよこす。それが本当であって、どこまでも自分が治して手柄をしようとすると外れてくる。

 大きな見地から観音運動というものをみて、一人でも多く助けるという考えでもって、観音運動を進展さしたい一念でやればいい。自分が偉くなるなどという考えは、微塵もあってはならない。

 その実例として、ある病人を一生懸命指圧したところ、さのみ効果がないので病院へ入院さした。で、聞いてみると、二、三度で治る病気なんで、その人は自分が治そうとしたので、割合に効果がなかった。聞いてみると病院では三週間くらい入らなければならぬと言う。私の所へ来れば三度で四円で治る。それを病院へ入院さして、観音力の信用を薄くした結果になった。自分の思うように行かぬと思ったら、すぐにこちらへよこすといい。その方のも一人のお子さんが百日咳で来られたんですが、今日で三回目でほとんど治ってしまった。四、五日後にまた苦しんだならば来なさいと言ったので、喜んでまた信用を取り返したようなわけです。

 その指圧を受けた方は、ここで講習受けてすぐですから無理もないことです。その人はすぐに猛烈な病気を扱ったんですから、無理もないことです。で、こちらへよこすようにしてもらいたい。自分が治すという自分に捉われて、こんな失敗がある。そういうことがあってはとちょっと注意したわけです。
さもしきは己が手柄を世の人に示さんとする心にぞある

 自分の手柄を人に見せたいというのはたいへん間違ったことで、世の中の人を良くするだけのものであります。
礼節と順序を守る事にこそ観音行の要ありける

 礼節と順序、これが人間がこの世に処して行く上に一番大事なことで、どんな偉くなっても礼儀を失えば駄目であります。

 観音様は、この歌を出されたところをみると、たしかに礼節を失ってる点が、人によってあると見えます。順序がなくてはならぬ。人が座るにも順序があります。軍隊が統制のとれているのは、ああして順序があるからで、一段上でも上の人の言うことは、絶対服従しなければならぬ。厳格に順序があるから一糸乱れず統制がとれている。個人個人だったら弱いものです。

 それで礼節は大事なものなんであります。
観音行の完き人は些かの佯り言も好まざるなり

 とかく人間は嘘を言いたがる。嘘を言わなければならぬことはしかたがない。病人にむかって顔色が悪い、影が薄いのということは言えない。嘘でもいいから元気をつけてやらねばならぬ。それは常識ですが、とにかく佯り言はいけない。
誰彼も慕ひて来なり自ら観音行の完き人はも

 人が慕ってくるようでなくてはならない。
狂ひなき行にしあれば如何ならん事も順調に進みゆくなる

 狂いがなかったら、どんなことでも順調に行く。もし順調に行かぬことがあれば、たしかにどっか間違った点がある。私は言いませんが、実にこういうことはよく判る。
釈迦孔子や耶蘇の教も観音行に到るが迄の便なりけり

 いままでの釈迦やキリストの教えも、結局観音行へ行くまでの準備で、間違ってはいないが、まだあれは手前のものなんで、いずれ講座でお話しますが、完全ではない。大学へ行くのにも小学中学を終えて行くように、やはりそれも必要なことだったんであります。

 観音行は要するに伊都能売で、完全無欠なんであります。

 本当の人間の行いで、そこまで人間は行くべきもの、発達すべきもので、そこまで行くのは、今までの道徳など教えなければならぬ。

 伊都能売に至って本当に人間としての行いができる。今日文化とか文明とかいうけれど、実はまだまだ四ツ足から離れていない。いまの人間は警察や軍隊などなかったら、どうなるでしょう。泥棒、強盗、殺人などで、とうてい生きて行かれぬ。そこを考えると、まだ人間でない。サーベルだの捕繩のようなもので取り巻かれていなかったら、悪いことをする。それが怖さに悪いことをしない状態で、みんな本当でない。そんなものなくても悪いことしない人もありますが、悪いことをしようとする人がずっと多い。人間の眼に見えぬ所でごまかそうとする人が、どのくらいあるか判らぬ。立派に学問した人で、宗教をやってる僧侶にしても、ごまかして、臭いことしようとする人がどのくらいあるか判らぬ。

 政治家などの立派な人でも、ちょっとしらべると疑獄など必ずある。こういう人達が日本の国家を犠牲にする。なんとなれば、官吏など賄賂をとる。役所などに物を入れるにも、すべて品物に対し賄賂がつき、品物はそのため賄賂の分も入ってる。一〇〇円につく品物も二〇〇円くらいのも同じよう高くなってる。おのれの賄賂のために商品の物価を高くしている。

 人間はもっと立派でなければならぬ。

 最近こういう話を聞いた。市役所だけを狙っている脅喝の偉い奴がある。それは一〇年間に三〇万円もとったという。市会議員など大名旅行をするのをつけてゆく。そしてその土地へ行く。そしてドンチャン騒ぎなどしてるのを写真に撮る。東京へ帰るとその写真を見せて、いくら金をよこすかということになる。それでそうとう金を出す。子分などたくさん使っているでしょう。そういうふうに市会議員など襲って、大口になると一遍に五〇〇〇円くらいもとった。そうして、妾を五人くらいもち、自家用の自動車を持っているそうであります。

 これだけをもっても、いかに市役所だけでも不正が行なわれているかが判る。東京の市役所では年々赤字で、年々富が減って行くのは、不正なことが赤字になって行くわけです。

 これが社会の上層に立ってる人達で、こういう人間をわれわれと同じ仲間とすればいい。われわれの仲間へ入れて人間らしくしなければならぬということになる。でありますから、今日、国家が二、三年前から毎年八億くらいの赤字が出ている。なぜ赤字が出たかというと、これを観音様から知らされたんですが、これだけ国家の人が不正なことをしていることになるんで、国家の財政はいるだけは必ず上がることになっている。官庁など一〇人ですむ仕事でも、二〇人も三〇人も使っている。そんなにいらない自動車を買って乗ったり、すべてそういう人達のやってる経費を約す……そういうことをやめれば赤字はなくなる。軍器を造るにもコミッションなど闇から闇へ行く金、それに奥がある。気がつかぬのか、それを言う人はない。いま、いいことを言ったり、いいことをしたりすると危いから、よほどうまく書かねばならぬと思う。

 日本は毎年輸入超過ですが、これほど日本商品が出て輸入超過とはおかしい。ドイツとか他国のものはしかたないが、今日これだけ発展しているにかかわらず、輸入超過とは不思議であります。これも観音様のお知らせによると、今日国民は不経済している。もったいないことをしている。労力を惜しんでる。もっと産業開発しなければならぬ。国民の怠惰、あるいは好きすっぽう贅沢なことしてるのや、あらゆるいっさいの不正がこれだけ輸入超過するわけで、そういう無駄がなければ、輸出は超過することになります。農民としても今日の農民は苦しむのが当然で、以前の農民と今日の農民とを比べてみると判るんですが、今日の農民は自転車を持っている。そして電気を使っている。肥料も金を出して買う。農民の食物は非常によくなっている。至る所にカフェーがあり、紅茶屋など、どんな僻地でもできている。こういうことはみな浪費になっている。それで売る品物もそれほど高く売れぬ。好景気の時代の贅沢の癖がやまず借金する。そして、その利子に苦しむことになる。それはどうしても苦しむに決まってる。そういう点がすべて、貿易のバランスがとれぬことになる。それほど身分はなくとも、やたらに子供に高等教育を受けさす。日本は特にそれがはなはだしい。英国の大学生は非常に暢気だという。それは富豪の子弟ばかりで豊かだから暢気なんで、英国などは中流くらいの家では大学までやらない。日本ではやたらに高等教育を受けさす。そのために立派な人になる者が少ない。高等遊民がたくさんできる。これは国家からいうとたいへんな不経済です。大学にいるときはなにもできぬ。大学を出てもなんら生産的なことができない。学校にいるうちはいろいろの洋書も読むんで、どうしても一万円くらいはいる。それだけ国家の浪費になっている。あまりにも学問を崇拝しすぎた点、これももっと訂正して、ちょうどいいくらいにならなければならぬ。そう考えると、あらゆる方面が間違いになっていて、未だ人間社会と思えぬ半獣半人というのが文化人と思う。少なくとも法律刑法がなく、ほっぽらかしておいても人の見ない所で不正をやらぬという世界にして、初めて人間の世界になると思う。

 日本のみでなく、文明人というヨーロッパやアメリカなどがひどい。ヨーロッパなどは野獣的で、イタリアなどちょうど猫の喧嘩のようなもの、それと同じものです。

 弱い人を助ける。これが人間の思想で、弱い者を食い殺そうとしている。いまは物質的に発達したようだが、精神的には野獣で、どうしても観音様がこれから本当の人間にする。伊都能売の身魂にするというのが、観音様の思し召しなんであります。

何事も程の一事を守りなばたやすかるべき此世なりける

 なんでも程度というものがあります。いくら信仰といっても程度があって、あんまり熱一方になると触ると火傷するようになり、あまり冷たいと触れない。暑からず寒からず、湯のようでなくてはならぬ。それが程であります。いままでの世界はこの点非常に考えなければならぬことは、湯のように程のいいということがなかった。大きくみて、運動にしても左翼運動、右翼運動しかなかった。政党にしても消極的と積極的の両方しかない。極端から極端へ行く。いままでは左翼が出ておそろしがらしめた。今度は右翼が出てファッショ気分になった。そういうふうに極端に行く。今度の五・一五の神兵隊の事件など起って、いまにどんな事件が起るか判らぬ不安がある。ところが左翼とか、右翼とかいうように、いまは冷たいとか熱いとか、どっちかですが、湯のようなちょうどよい道、それは、観音様の教えとか行いしかないのです。

弱き者よ汝を名付けて曲といふ罪に打克つ強さなければ

 弱き者よ汝の名は女なり、という語がありますが、悪魔はいままで強いものと思っていた。しかし実際は弱い。なんとなれば罪に弱い。あらゆるものに、一歩外へ出るといかに誘惑が多いか判らぬ。金儲けをすれば、なかなかできない結果誘惑がたくさんある。その誘惑に勝つことはよほどの強さがなければならぬ。そういう誘惑に負けるのは実は弱いんで、どうしても罪に打ち勝つべき強者とならなければならぬ。
およそ世に強きは己を打忘れ正しき道を貫く人なる

 貫くというのは、できないうちにいろんな誘惑などに阻まれるんで、それに打ち勝たなければならぬ。

私心なくひたすら道に励みなば大御恵は豊に享くるなり

 自己愛、利己的な心がなく道に励めば、必ず栄える。

国の為世の為人の為のみをときじく思ふ真人尊き

 こういうことのため、始終思う人は尊い。こういう人こそ実際の人間で、いまの半獣的人間とはぜんぜん違う。

さもしきは己が手柄を世の人に示さんとする心にぞある

 こういうことは実にさもしく見える。知らず知らず人間の行いは、かくすところに床しさがある。西洋人はそれを示そうとする。全部ではないが、中には宣伝する人がある。日本人はそういう点を隠すようにする。それが奥床しい点です。
忠孝の道踏みゆけばいつかしら観音行の門に入るなり

 これはなんとしても根本であって、いかなる場合どんな人でも、忠節の心と親に孝行する心ならばいい。他にどんないいことをしても駄目で、要するに骨なしです。これが骨で、観音行も忠孝から出発していなければならぬ。ですから、いかに文化が進もうとも、これだけは間違いない。しかし今日の学校教育はその点大いに遺憾な点がある。高等教育を受けるほどそういう念が薄くなる。かえって小学校ほど濃い。中学、女学校となるほど薄くなる。いまの学校教育はユダヤのもので、ユダヤで作ったものは個人思想が根本になっているから、どうしても今日の教育はそういうものになっている。将来は小学、中学、大学をこちらで造るつもりであります。

 そして本当の伊都能売の教育をする。私の娘は女学校へ出してありますが、どうしても先より娘の思想が悪くなる。世間はみんなそうで、学校はこっちでこしらえるよりしようがない。そして観音会の教授を造り、それによって教育しなければいけない。

床しけれ我身の事を後にして他人の良かれと願ふ心の

 この歌の通り、人をよくしようという精神こそ、本当に床しい観音行です。自己を捨てるというが、捨てるように見えるんで、人のためと思えばその人は大きな存在となる。自分を偉く見せようとすると、かえって小さく見えるのであります。

 最近の新聞に科学の進歩により宇宙線というものが判った記事が出ております。(切り抜きを読む)

 これは先に知らされたことですが、地球は中空に浮いているようなものです。虚空に浮いている。そして地球をたくさんのもの、すなわち霊線をもって地球を支えている。あらゆる天体のものから、地球を安定さすために霊線が引っ張っている。網の目のように引いている。星一つといえども引いている。これが霊線でまだ学者には判らない。また、地震の原因も判っていない。これはなんでもないことで、地殼の収縮なんで、一番最初地球は泥海のようなもので、それがだんだん固まったもので、固まって生物が住めるまでになった。それがまだ本当に固まっていない。これがだんだん固まる。一固まり固まる。それが地震で、大光明世界までに固まり、それで光明世界になると地震はなくなるわけです。それで、すばらしい建築ができる。大風もなくなる。それが大光明世界で、それまでは地震がある。人間が光明に住するごとく、地球自身も完成するんであります。

「岡田茂吉全集講話篇第一巻p80」 昭和10年08月01日