昭和十年二月十一日 御講話

 ただいまの東光男氏の講演は、実におもしろうございました。よほど老巧にならなければできません。人を呑んでかからねばできません。

 今日は紀元節のおめでたい日であがます。紀元二五九五年でありまして、西暦一九三五年とて、これも五年となっております。今年から五六七となりこれがある重大な意味になります。

 いま東氏が、俺がやらなければ病貧争のない世界とはならんと申されましたが、私から申しますと、私が言うんじゃない、観音様がお前がやらなければ駄目だと申されるのであります。それはいささかずるいかもしれませんが、いままでの罪穢が出て亡びる者も打ち倒れる者もできるから、岡田がやったとなると恨まれるが、観音様がやったのだと言えば文句はありません。

 今日の紀元節についてそう思ったが、荒木大将や丸山鶴吉氏のお話を聞きましたが、非常に日本精神を高潮しておりましたが結構であります。これも非常に永久の流行であります。

 私はいま東氏のお話の通り、観音様の後の艮、観音様の艮に当たる橋場で生まれてちょうど一五まで、浅草は東京の艮となります。また、東京は日本の艮に当たり、日本は世界の艮であります。東と申しましても、太陽は東というよりは、艮によった方から昇ります。よほど艮に縁があります。

 浅草観音の御神体は、明治時代になくなっているということは事実らしいのであります。あちらからもこちらからも、これが浅草観音の御神体だといって出たが、戦国時代には源頼朝や楠木正成や徳川家康といった武将が陣中へ祭っておりました。これらはみな一寸八分の観音様のために、所々からたくさん出るわけであります。本当の御神体は浅草の橋場の私の生まれた所の一〇軒ばかり先の長昌寺に安置してありまして、御開帳中浅草寺へお移ししておったのであります。

 私の曾祖父というのが、橋場からじき五、六丁の所に浅草町という所があります。そこで質屋をして武蔵屋と言っておりました。その当時その辺でのそうとうの財産家で、義侠心に富みいまの町長くらいの資格があり、人を助ける力があり、鳴らしたものでした。武蔵屋喜左衛門とてその界隈での幅利きでありました。明治になるまでやっておりましたが、なんだか知りませんが、その当時御神体を質に預けて、そのままになったのであります。もっとも観音様は宮戸川へ流れてきていたから、流れるのが因縁かもしれません。私の父の乳母が私の家に御神体があったと言っておりました。義理の父の兄が失敗して、それが人手に渡したかもしれませんがいまはありません。

 私の家の寺は三河島の観音寺で、自分は子供のときから観音様に非常に縁があると思いましたが、いまになるとよく判ったわけであります。

 それから先ほど、荒木大将のことを申しましたが、そのお話の中に三種の神器というお話がありました。これについてお話し申し上げます。

 八坂瓊曲玉<やさかにのまがたま>┐
 天叢雲剣<あめのむらくものつるぎ> │
 八咫鏡<やたのかがみ> ┘
となっております。

 これを仏界では、玉は観音、剣は阿弥陀、鏡は釈迦となります。これが三人のみろく様となります。これは、いままでだれも言った人はありません。

 また、玉は日になり、剣は月となり、鏡は大地となります。これはよく間違われて説かれております。

 玉は丸いものでありますから、太陽であります。月は本当の剣の形となっております。「つるぎ」をつめると「つき」になり、鏡は角が八つあり、八角の形となります。大地のことを、大八洲<おおやしま>と言いますが、鏡は大八洲の形となっているのであります。

 数から申しますと、玉が五、剣が六、鏡が七となります。これが三種の神器なのであります。
 それから、日本が玉で、西洋が剣で、東洋が鏡となります。ですから、西洋は武力を使って他国を侵略するようなこととなるのであります。また、東洋は土だから年中蹂躪されております。

 印度の言葉は陰陽の陰、度は土が本当であります。「陰の土」であって、インドは一名月の国であるから陰であります。また、インドは土の国でありますから、陰の土と書くのが本当だと思います。

 三種の神器は形態的の物質に限らず、あらゆるものに三種の神器があります。舌から言葉が発せられ、舌は言霊の剣であります。舌の先でなんでも問題を起すことも切ることも、威服させるのも舌の先でできるのであります。よくあの人は吾が切れるというのも剣であります。

 鏡は心のことで、心の鏡が曇るとよく写らんから、人に騙されたりいたします。

 三種の神器は至る所にありますが、一番大きいのが世界的の三種の神器であります。 神様で申しますと、 玉は天照大神、剣は素盞鳴尊、鏡は若姫岐美尊<わかひめぎみのみこと>となります。

 なおまた、主師親から申しますと、玉は主で、ヽを上へ打てば主となります。剣は師であります。鏡は親になります。ちょうどよく合ってまいります。

 釈迦が鏡でありまして親であります。阿弥陀も観音も下ではありますが、釈迦が親となるのであります。阿弥陀様も観音様も、お釈迦様が産んだわけであります。昔から偉い人を産んだその人が偉いというが、それは違います。ムッソリーニより母のほうが偉いという人はありません。

 「主師親」を一つにして権力をもっておられるのが、天皇陛下であります。これが分かれば、いま言ったようになるのであります。もっと分ければありますが、これくらいにしておきます。

 物質といたしますと御皇室の宝となります。

 いま言ったように、印度という字のようになっている字があります。これにとらわれていろいろなことがあります。

 東氏が浅草観音の写真を写しましたが、浅草観音に「施無畏<せむい>」と書いた額があります。観音様は「施無畏菩薩」と言うから書いたものかもしれませんが、意味がいままで判らん……。「施して畏れ無し」では判りません。これは当て字であります。本当に解釈すると「施無畏」とは、言霊の霊返しで、セムはスとなる。畏はイで、イとは位であって、主の位であります。それを匿してあったのであります。「施無畏菩薩」は、主の位を持った菩薩ということであります。これからこういうことになるのであります。

 それから、この間も高天原のことを話しましたが、天の岩戸はどこかという研究がありますが、扉が信州の戸隠山まで飛んだのだからどこか関東にあるという説がありますが、これはどこにもあります。小さくは人間の心に岩戸があります。観音様のことを知って悟った人は、心の岩戸が開けたのであります。それですから、話しても観音様のことが判らん人は岩戸を堅くしめているのであります。話をしたり本に書いてあるのを見て開く人もありますが、開く人が少ないのであります。

 心の岩戸に光を与えると一番早く開きます。一番の根本は、世界の一番根本の岩戸を開けることであります。いまはあらゆる階級や国魂がしまっております。岩戸が開けば、天照大神様が住まっているのであります。心の岩戸を開けば、太陽の光明を拝めます。観音様の光を感じて拝める人は、心の岩戸が開いているから拝めるのであります。

 心と魂とは違います。人間の五体全部に行き渡っているのは、精霊でありまして、その中心が心であります。それゆえ中心の心は芯であります。心の中にまた、魂が入っております。魂は非常に小さいもので、心の百分の一であります。また、心は精霊の百分の一で、体からは千分の一でありますから、九分九厘と一厘となり、また、千騎一騎のことにもなります。千分の一の魂が、千倍の体を左右するのであります。

 心の岩戸が開けるとは、魂を包んでいる心が開けるのでありまして、心の岩戸が始終堅くなっておったのが開けるから、魂が光を拝むことができるようになるのであります。いままでの教えや道徳では、魂まで届きません。心までより届かなかったのであります。

 それで、世界が精霊ならば、日本が心となり、東京が魂となるのであります。あらゆるものがみな三段になっているから、これも三段になっているのであります。それから、この東京が精霊とすれば麹町が心であって、宮城が魂となるのであります。

 それで、この精霊および心と魂が、霊と体となっております。要するに、天地となっているのであります。精霊の天は上半身、下半身は地であります。しかし、下半身と申しましても、体半身ではなくて、首から上が天で、下が地であります。天の中心は脳髄の真ん中にあります。地の中心は臍であります。臍のことを中腑というのは、この意味であります。ですから中心が天地になりますから、魂が天地になります。別々のようですが感合<感応>しております。

 昔は腹で考えると言う。いまは頭で考えると言いますが、これはどちらでもあります。両方が感応し合って考えが出るのです。われわれが考えるにも、頭や腹で考えるような気がいたしますが、これは両方であるからであります。しかしこの命令権は頭にあります。それは天であるからであります。まだ詳しく解けば説けるがそのくらいにしておきまして、これをもっと徹底さして行きますと、天皇陛下のお働きにまで話がなりますから、面倒になりますから止めます。

 観音会の仕事は、人間の心の岩戸を開ければ、世界中開かれるのであります。宇都売之命<うづめのみこと>が踊って神々様を笑わせますが、観音会には笑いが必要なのであります。なぜかと申しますと、議論や説教では岩戸は開けません。笑いはにこやかであります。笑い合うようでなければ心の岩戸は開けません。議論や小言では逆に岩戸がしまってしまいます。観音会は話などせず、祭らして拝ませればよいと言うのであります。藪から棒に祭れと言っても駄目でありますから、御神徳話をすればよいのであります。それで話ができるのであります。

 いままでの宗教は教えとか説教とかで責めて行きます。理屈や言葉の数で責めるのであります。天理教では四時間でも五時問でも座ってやってますが、間違いであります。値打ちのないものは説明がいりますが、価値のあるものは説明はいりません。話をすれば判ります。大いに笑う気分でなければ駄目であります。本当の岩戸は開けんのでありますから、観音会では笑冠句を奨励しております。他ではこの催しはやりません。

 キリストは笑いは罪悪だ。「笑い合うところ罪悪生まる」という、牧師の説教は、まるで泣き声をしています。これでは岩戸は開けません。大いに笑って大いに朗らかでなければ駄目です。朗らかな人のことを明るいと言いますが、明るくしていねば天国は開けません。

 『光明世界』でお読みになったでしょうが、阿呆文学は長く続ける心算ですが、この次は、「目下罪障消滅中」というのであります。その次は、「大千誤魔化し世界」だから、本当のことを言うと自分が暴露されるから、言うことができなかったので、あらゆる世の中のことがみなごまかしになっているから、迷いを生ずるのであります。仏教でもなんでも、判った人がないから山へ籠もったり、断食をしたりして、難行苦行をしてもやや近いところまで行くが、結局は今一歩のところで判らないことになってしまったのであります。坊主の堕落は、物が判らない半ばやけになるから、あのようにだらしがないこととなります。今度は判らないことを世の中に知らせるのであります。私が、これから話をするのが、第一歩であります。

 阿弥陀様が一番偉いという人と、また、お釈迦様が一番偉いという人がありますが、みな間違いで、ごまかしであります。

 東氏の言われた奉仕的大安売りも、高いものを売りつけようとする手段より他ならないのであります。

 仏教に限らず、すべて世の中のことがみなその通りであります。みなごまかしであります。

 私がだんだん世の中のことを暴露いたします。それには、第一に怒らんように滑稽に言うのであります。滑稽に言えば笑いながらその人達が改心いたしますことになります。

 観音様は世の音声を観ると解釈しているようですが、世の音声を見てすべてを悟って済度すると言うが、観音様はつんぼではありませんから、音を見ないでもよろしいのであります。私は生まれてから未だかつて音を観たことはありません。この次は観音様のお話をいたします。

 いままでの世の中のあらゆることは判らなかったから、みなごまかしで終わっておったのであります。ごまかされて感心して随喜の涙を流しておったのであります。

 仏教の解脱もみなこじつけてあるばかりであります。そういうことをよほど暇な人があったとみえて、さかんに奨励していたのであります。禅宗の坊さんや信者連がよく言う、「隻手<せきしゅ>の声を聞く」なんてまじめになってやっているんですから、人間も馬鹿馬鹿しいものであります。この隻手の声にはいろいろ解釈がありますが、私は、隻手では音はない、双手<もろて>で音がするのであります。私は隻手では音はないと解釈いたします。

 それから、よく聞くことでありますが、肉体はあるのでありますが、ある人は肉体はあるが事実は空だと言います。

 あの生長の家の谷口正治氏は大本時代に、私も知っておりますが、やはりこれと同じ説でありますが、この谷口氏は病気は仮のものであるから心で健全だと思えば癒えるというのでありまして、これなどがごまかしの第一等のものでありまして、こういうふうに、いまに至るものを変てこに、曖昧にしてゆくので判らなくなります。

 親鸞の言った、「善人は救われる、況んや悪人をや」と言うことがあるが、これを聞いて信者がみな喜んでおりますが、これがごまかしの傑作であります。これ故に霊界にたくさんいる悪魔が、世の中を悪化するように出てきて、この連中に憑って活動するのでありまして、世の中を悪くする悪魔の仕組みであったのであります。この通り阿弥陀の悪の働きをやったのでありますが、それも天地経綸の重要なる悪の役割をしたのでありますが、結局、これも善になるのであります。

 阿弥陀の陀の字が非常に悪の働きとなるのであります。陀の字の<こざとへん>を虫偏にすれば蛇になります。これをもって悟れば良いのであります。今度は阿弥陀様が改心するのであります。マッソンをこしらえたのは、奥の院に阿弥陀様が祭ってあったのであります。

 いままでは、観音様より上にいて人々に拝ませていたのでありますが、阿弥陀が下に降って観音様より下になれば、五六七の世となるのであります。このような例はなにほどでもたくさんありますが、善悪を判らないようにしていたのでありまして、南無阿弥陀仏を称えさえすれば、悪も救われるというが、これが悪人を作ることが多くなるのであります。

 できた悪を救うよりも、悪を最初から作らんようにするのが、本当の教えであります。このように根本がたいへんに違うのであります。

 救世軍が年の暮れに鍋を出して、正月の餅を配ることをやり、また、不仕合せの者、罪人などを救うというが、その根本にさかのぼり、不幸な者ができんようにするのを考えないで救うと思っても根本から出ぬようにしなければ、これは根絶することもできず、いつまでやっても際限のないことになるのであります。救うのも必要だが、このような不幸な者のたくさん出ぬようにするのが一番良いのであります。社会事業は箆棒<べらぼう>だ、いっぼうで不幸な人を造り、それを救うのであります。それが出ぬようにするのが本当なのだ。これがごまかしの世界なのであります。

 悪の出る根本はどこにあるか、これは、支配階級が正しい行いをするのが根本であります。宗教家や政治家は、良いことをせねばなりません。上流が濁れば下流が濁るのがあたりまえであります。すべて源にあるのであります。源の人間が本当の働きをすれば善いのであります。ところが、いまの上流は、それをやるのが嫌なのだ。妾を置いたり、芸者買いをやったり、女子に手をつけたりする、こういうことが止められんのであります。根本を良くするのが嫌なのであります。

 政治家も神様を祭り、政治を行なう前に、まず神を拝んで、しかるのち行なえば良い政治ができるからよいが、待合や料理屋でやらなければ、会議ができん。乱れているから本当のことができません。自力更生、農村救済などといろいろなことは言うが、農民が気の毒だから救わねばならんとすれば、まずもって料理屋で食っていたのを三〇銭くらいの弁当にするとか、まず第一に、自分らが率先してこれを実行すればよいのであります。世の中の人も競ってこれをまねるのであります。凶作地の話を待合でやるのでは問題になりません。何千坪かの邸宅を構え、祖先の関ケ原の戦の功名で公爵になり上がっている人達が、教化運動の総裁でやっているが、自分の行いを改めずに、人に行なわしても駄目であります。悪人ができるのはあたりまえであります。支配階級の人が、自分達の行いを見せてくれて、世の中の人も見習うことで、納得するのであります。

 国際連盟の問題の時、満州を日本が武力で取ったと言ったが、国際連盟の人達は、自分の国ではたくさんの植民地を持っているのはなんだ。みんな武力で取ったのではないか。日本は満州が日本の生命線であるから独立させたのだ。また、現在でも武力で圧<おさ>えつけているではないか。インドなどでも少し騒動すれば、たくさんな軍隊がどんどん虐殺する。日本で取れば文句をいう。実におかしいではないか。日本の満州を取ったお手本はだれだと聞きたいのであります。悪人の出る根本はだれだ、やはり自分達の行動からではないか。これがごまかし世界のごまかし世界たる由縁<ゆえん>であります。

 北○は盤古神王系<ばんこしんのう>にして、南○は大自在天系なり。南○より出たる出口王仁三郎は大自在天にして、いまの働きは大六天の魔王なり。それで大悪魔にはあれども、岡田仁斎先生を産みたるは、大悪魔の悪業を償いて余りある大功あれば、今後において改心すれば、また救われて元の霊魂に復帰することを得るなり。素盞鳴尊の霊魂なり。

 月は水なれば阿弥陀も水なり、阿弥陀仏を今において拝む者は、体中冷ゆるは当然なり。
 日は火なり、観音様は日の神様なれば、冷ゆる人が観音会に入会して、観音様を拝めば冷も去り暖かくなるなり。

 月は阿弥陀仏にして大自在天なり。さればこそ六にして中界の魔王となるなり。大六天の魔王とはやはり六なればなり。出口王仁三郎なり。また、猿田彦命が中界の魔王となるという大本教のお筆先あり。これもこの意味なり。猿田彦命は手力男命となる。昭和神聖会はこの働きなれば大六天の魔王の活動となるなり。すなわち、出口王仁三郎の主催なればなり。

 釈迦は悪少し、すなわち教祖様の意味となる。

 天若彦は七の霊魂なり。教祖様の夫なればなり。

 三千年の桃の実とは西王母のことにして、現界の歴史である。仏教では胎蔵界という。弥勒の出現の時まで五六七を胎蔵していたのである。西王母は聖王母とも書く、伊邪那美尊のことである。いままでの世界は、伊邪那美尊の御経綸である。伊邪那美尊は西の経綸である。

 西王母より生まれて、いよいよ桃太郎となる。千手観音は桃太郎のことである。たくさんの宝を取るのは、千手観音の手にたくさんの宝を持っている。あれはいままでの世界の物はすべて鬼ヶ島の鬼が支配しておったのを取り返したこととなるのであって、いままでのあらゆる権力を鬼が持っていたのである。今後鬼が改心することになるのである。桃太郎に出られては迚<とて>もかなわないと言って降参するのである。

 いままでの支配権は(支配権といっても霊的である)鬼が持っていたのを、いよいよ奉還するのである。

 尉じょう>と姥<うば>とで世界の大掃除をいたすことである。黄泉津比良坂<よもつひらさか>の戦いは鬼と桃太郎の戦いである。

 桃太郎は桃の実である。千手観音である。応神堂の千手観音のお顔は若いが、あれは桃太郎の顔である。

 黄泉津比良坂の戦いは、一番初めは明治神宮の参道九鬼隆二子爵の家に行ったことである。青山隠田首一番地で、百一番は「桃のはじめ」ということ、九鬼とはたくさんの魔のことである。その戦いで勝って如意宝珠<によいほうじゆ>の玉を夫婦で持ってきてくれた。いまでもどんどん第二、仏、第三、第四と戦っているのである。

 麹町へ出たのは、鬼ヶ島の真ん中へ出てきたことである。

 桃太郎は最勝妙如来である。必ず勝つのである。桃は三月三日に咲いて五月五日に実る。五月五日の鯉のぼりのことは非常なる意味がある。鯉は魚の観音である。真鯉の鱗は三十三枚である。

 常磐津や長唄などには神秘がたくさんある。これは神様が準備しておられたのである。観音宗とか観音教とかいう宗教のいままで出なかったのは、また神様が取っておかれたのである。

 今度の祝詞の中にある大千三千世界と書いてあるのも、いままでの三千大千世界となっていたのを逆にしたのであって、これは非常なる意味がある。大千のセンはスとなる、オスの意味にして男のことである。また、大のオオは王ともなる。三千はミスとなり、メスとなり、女の意味である。これはいままで女が上で男が下であったことになるのだ。嬶天下<かかあでんか>の意味にしていままでの逆の世の言葉である。いよいよ時節が来て大千三千世界となり、男が上になったのである。

 釈迦とはサカの意味にして逆である。神様へ榊を上げることも逆の木を上げたことで、逆の世を表わしているのである。

 南無阿は間違いであり、南無妙も間違いで阿無南、妙無南とならねばならぬのである。要するに、いままでの仏教は間違いであるから、止めようということになるのだ。南無阿とか、南無妙とか称えることは間違いの世を謳歌することになるので、われわれとしては絶対に止めねばならぬ。南無という字は決して使用することはいけないことになる、心すべきである。

 昭和10年2月11日