正義はどんな事をしても蹂躪(じゅうりん)されないから世界というのはいいのです。もし正義がちょっとでも勝たなければ、世界というものは崩壊してしまいます。大変なものです。だからキリストだって、正しいから自分の身が亡びてまでやっぱり世界を何するだけの力を現わしたのです。
だから人間は、正義がーーこれは形だけではありません。正義というものを打通そうという信念だけが人間の値打です。それの強い程人間の価値があるのです。それが無くして、御都合主義や打算主義の人間は形だけです。骨のない人間です。今はほとんどそういう人間ばかりと言っても良いでしょう。そこで人間の骨です。
先に私の大本教時代に、短刀を持って来た奴がありますが、私はその時分に「おひねり」と「御守」を出していた。それを止めろと言うのです。それが大本教全体の問題になったのです。
それはそうでしょう。聖師様でさえ、″オレには出来ない″。三代様ーー子供です。今度三代教主になりましたが、その人だけは「御守」と「おひねり」が出来るのです。それはお筆先にあるのです。遺言にあるのです。だから聖師様でも、″オレでも出来ない″と言っていたのです。
ところが私はそれを作っていたのですから問題になったのです。一信者の岡田さんに許す事はない、と問題になって、短刀を持って″止すか、もし止さなければやっつける。返事をしろ″と言うので、私は″止す事は出来ない″と言ったのです。そうすると奴さんが、にらみ付けていたのです。私は危ない。すると急にアアイタタタタとのた打つのです。どうしたと言うと、腹が痛くて仕様がないと言う。危機一髪です。それで治してやるからと横に寝せて、治してやったのです。そうすると丸っきり人間が変わってしまったのです。
今度は私に、″自分と、聖師様のところに行って「御守」と「おひねり」を作って良いかという事を、聖師様の前で伺ってみよう″と言うので、翌る朝二人で亀岡に行き聖師様のところに行って。″岡田さんはこうこうだ、それはお許しになって良いのでしょうか″と言ったのです。
ところが聖師様という人のその時の返事が面白いのです。私は何んと言うかと思っていたのですが、「それは信者としては出来ない。ワシでさえ出来ないで、三代にやらしたのだが、けれどもあんまり目立たない様にやってくれれば良いだろう。目立つ様にするとワシが皆にせめられて困るが、これから皆が欲しがるならやっても良いが、目立だない様にやってくれ」と言ったのです。だから奴さんもハッとしてしまったのです。
聖師様という人は、私か只者でないという事は分っているのです。だから私か行くと、必ず送って来るのです。信者を送るという事はないのですから、送ると言うと面倒臭いからーー近侍の者が四、五人は居ますからーー″今散歩に行こうと思っていたところだから″とか″私はちょっとどこそこに用事があって、今行こうと思っていたから″とか、そう言って送ってくれたものです。(中略)
「大本教に入っていた時、やっぱり理屈屋で変な事を考えて居りました時分ですが、大祭の時に聖師様に虎と熊が憑ったところが、二日間動かないで床縛りになった事が御座いました。私は神様だと思って居りましたが、神様がそんな馬鹿な事があるかと思って居ましたので・・・」
そうそう、私か治してやったのです。口が利けないので、これはいかんと霊で何したら二時間ばかりで囗が利ける様になったのです。それで随分困った事がありました。面会に行って治してやったのです。
大本教というのは、やっぱり私を出す為に現われた宗教なのです。つまり教祖様という人は、仏教的にいえば釈迦です。聖師様という人は阿彌陀です。それで釈迦と阿彌陀が観音を生むのですから、私は子になるわけです。ですから私は大本教から生まれたわけです。それで、父と毋になるわけです。これは神秘なものです。
だから教祖様は「イズ」で、聖師様は「ミズ」で、私か「伊都能売(いづのめ)」という事になるのです。
「イズ」と「ミズ」の両方の性格を総合密合させたものです。それが私になる。教祖様や聖師様にしても、他の事は偉かったが力が無かったのです。病気を治すという事でも、力がなかった。
何故かというと、力というのは、霊と体が密着して力が出るのです。経と緯が組んで力が出るのです。それが私です。
「チ」は霊で、「カラ」は体だから、霊体が一致して「力」が生ずるのです。
つまり伊都能売というのは「力」です。だから「力」を持っているというのは今まで世界に出なかったのです。
その力が世界的に広がっていけば良いのです。ですから観音というものはそれになるわけです。観音力というのは、丁度男と女、火と水、経と緯、それが一致したものです。そこで観音力といって、阿彌陀力とか、釈迦力とか、キリストカなんてありゃしないのです。
また力というものは制限がないのです。無限のものです。だからこの頃キリストと同じ様な奇蹟を信者が行うが、そうすると、力という点では、キリストは私の弟子位しか無かったのです。
ところが力においては、日本中の立派な坊さんでも、信者の足下にも追付きません。弘法大師でも、法然上人でも、その点においては、こう(御浄霊)やって病気を治す事は出来なかったのです。
ところが、信者が何千万何百万になっても、私が書いたものを懐に入れていれば出来るのですから、そうすれば、「私の力」というものは、無限といっても良いのです。
「本日の幹部会で話が出ましたが、最近力が強くなって参り、その御力を頂き奇蹟があるのに、教修がどちらかといえば低調で御座いますが、何か霊的の関係かおるものか、或いは資格者が御経綸に添わない為で御座いましょうか」
そうではないのです。神様の方ではそれで良いのです。先に散花結実と言ったでしょう。実が生(な)るまでは暇がかかります。花の方は早いでしょう。ツボミが出来るとパッと出来るのです。実の方は、昨日と今日は同じ様なものです。そんな様なもので、つまり実の生(な)る形だからそれで良いのです。見て居て御覧なさい。今に索晴らしくなります。