思いやりの深い人

 教祖の思い出といっても、当時の私はホンの子供でしたので、あまりはっきりした記憶は残っていないのですが、茂吉さんは思いやりがありました。

 横浜の金沢に茂吉さんの別荘がありましたが、その別荘へ、自分の店の店員だけでなく、店員の知り合いでも病気になると、みんなつれて来て養生をさせるというふうでした。結核の人でも平気でつれて来ました。怪我をした人までつれて来るので、留守番の親戚の人が音を上げたくらいでした。

 親密の関係にあった松本章太先生が、看護婦をつれて別荘へ来て下さったのは、私の父がチフスにかかった時で、この先生も茂吉さんがつれて来たのです。

 この時も父は金沢の自宅で寝ていたのを、『避病院なんかダメだから、ここでゆっくり養生しなさい』と、わざわざ担架に乗せて、ご自分の別荘へつれて来て、いろいろ親切を尽くしてくれました。そういう温かい人です。

 それに茂吉さんは、気前のいい人でした。口でクドクド言うことはしませんが、実がありました。さっぱりしていて、人に倒されてもクヨクヨしないという人でした。

 この金沢の別荘は、茂吉さんが新築したのですが、後になって、私の母にくれてしまいました。というのは、茂吉さんの前の奥さんが亡くなったあと、『私もやがては後添えをもらわなければならないし、その女房とふたりでやって来られては、あなたもいやでしょう。だから、この別荘を差上げますから、自由に使って下さい』と言われ、あっさりとくれてしまわれたのでした。

 茂吉さんは私の祖父とも気が合っていて、よくふたりで碁をうっていました。

 その祖父が村の者をつれて上京して、茂吉さんの家へ行くと、茂吉さんは宿屋へは泊めずに、みんな自分の家へ泊めてしまうのでした。看護婦試験を受けるとか、大学入試を受けるとかいう人――それも親戚とかなんとかいう関係でない人まで、茂吉さんは泊めて世話をしました。

 そのかわり、恐いところもあったらしく、何か悪いことをする者があると、いくらあやまってもだめで、「茂吉さんは、まるで外国人のようだ。一度〝ノー″(否)と言ったら、金輪際だめだ」と、だれかが笑っているのを聞いたことがあります。