思い切りのよさ

 明主様がまだ商売をやっておられ、商品を三越に納入しておられた当時、三越に「三正会」という会がありました。それは三越に商品を納める商人の集まりでしたが、この会員は厳選主義で、同じ商品を納める商人が十人いても、この会員になれるのは、せいぜい二、三人なのです。その三正会に明主様ははいっていられたのですから、岡田商店主としての信用は絶大だったわけです

 その仕事をポンと投げ出して、信仰にはいられた、そして貧乏なさったのですから、どう申し上げてよいやら、普通の方ではない。思い切りのよい方でありました。

 その当時から、私のところでは家族ぐるみお親しくさせていただいたのですが、観音会をおはじめになったころも、生活もラクでなかったようです。電話料が払えなくて、電話を止められそうになったこともあり、ご飯のおかずも納豆だとか目刺しだとかのこともありました。でも明主様も二代様も、貧乏臭いところは微塵もなく、超然としていらっしゃいました。 明主様が宗教家になられてからも、外形的には別に変わりはなく、着物の袖をタバコの火で焦がしても平気で、またそれを着ていらっしゃるし、「笑い冠句」の会では、こんなことをまで知っていらっしゃるかと思うような、人情の機微をよまれるし、やかましい私の祖父のことを、私に向かって『あの爺さん苦が手だよ』などとおっしゃってました。ですから明主様はよく私の家へ来られましたが、祖父の前では、さすがの明主様も謹厳居士でしたが、何しろフラリと黙っておいでになり座敷へ上がって、それこそ自分の家のようにしていらっしゃいました。

 時々お昼ごろに、おいでになります。「きょうは、お早いのですね」と申し上げると『何も仕事がないからやって来た』とおっしゃって、座敷でゴロリと横になられるのでした。『寝られないから』と言われて、夜おそくブラリとおいでになることもありました。

 私どもの家では気ままに、ご自由になさっていらっしゃって、夏などは浴衣に兵児帯をグルグル巻きにしてお見えになりました。

 明主様は、オシャレだと言われる方がありますが、私はちっともかまわない方だったと申し上げたいのです。いいえ、かまわな過ぎて、よく『鋏を貸して』と言われて、袖口から下がっている糸を、ご自分で切っていられました。『うちの奥さんが何もしてくれないからね』などと、ご冗談をおっしゃりながら──。

 昭和十年の秋に上野毛に移られるまでの明主様のなつかしい思い出でございます。その当時も、明主様はご晩年と変わりありませんでした。髪が真っ白で気が短く、セカセカしておられ、よく冗談を言われました。