勤労<きんろう>の意味を拡大解釈<かくだいかいしゃく>いたしますと、人間は全部が勤労の義務を持っている、と申しても間違いはないと思います。人間は何かの役に立つべきものであり、必ず仕事を持つことが原則<げんそく>だと思います。
神様は生成化育の神業を瞬時といえども怠ってはおられないのですから、神様の器である人間は、当然社会の進歩向上、また、相互<そうご>の発展のために、なんらかの役目を果たしていかなければなりません。だから、人は残らず勤労者であり、労働は神聖<しんせい>だということが言えるわけであります。
人は食べるために働くのではなく、働くために食べるのであります。汽車が石炭を焚<た>くのは走るためであって、石炭を焚くために走るというのではないはずです。この目的と手段が知らず知らずに置き替<か>えられていることがずいぶんありますが、これが間違いの因になると思うのであります。
神様は用のために万物を造られ、養<やしな>っておられるのです。したがって、大きな御用をする者には、それに相応して神様からよくしていただけるのは自然の道理であります。神様は直接物はくださいませんが、人の手をとおして必ずお与えくださるのであります。
かように考えますと、自発的<じはつてき>にする仕事も、また、人の手から渡<わた>される仕事も、つまりは神様から渡されている仕事でありますから、何ごとであれ魂を寵<こ>めてやらなければなりません。たとえ、つまらない小さな仕事でも、心を寵めてやれば、必ず神様に通じて神様 の御用となるものです。それが誠であります。それがまた自分のものになるのです。ですから、熱心に心を籠めてやらなければ、いくらやっても自分のものにはなりません。お勤<つと>めをする人などでも、時間の経<た>つことばかりを考え、早く終ればよいなどと上<うわ>の空で仕事をしている人は、出世<しゅっせ>はできないものであります。
人が見ていようがいまいが、問題ではないのです。いただいた仕事を熱心にやっているうちに、それがその人にふさわしい仕事でなければ、また、新しいよりよい仕事がちゃんと授かるものです。要はその置かれた所において、最善の努力をつくすということが真の人間であります。そうすれば、神様ほどこにいても見届けてくださり、必ず御守護と向上を与えてくださいます。これは処世上<しょせいじょう>一番大事なことでありますから、ことに若い方はしっかりと肚に入れておいていただきたいと思います。
いまの人たちの考え方は、働かせていただくというのではなくて、働いてやったという考え方です。神様に対してさえ、してやったのにどうもよくならないという不平が出がちなのであります。この考え方を一掃<いっそう>しなければいけないと思います。いただくという気持でないと、感謝が生まれてこないものです。