入信

 その後、總斎は約一ヵ月ほど宝山荘を訪れることはなかった。この間、總斎が何を考え、何をしていたのか伝えられてはいない。しかし、總斎は残された人生のすべてをこの道に、そして明主様に捧げ尽くすことを決めていた。たぶん、總斎はそれまで母の隠居所にあった解脱会四谷支部の整理など、明主様の御用をするためのあらゆる準備をしていたのであろう。總斎は何をするにもいったんこうと決めた以上、そのための行動は迅速だったという。總斎は入信の直後さまざまな御用をしている。その準備のための一ヵ月とみるのが順当ではなかろうか。 
 總斎が宝山荘を再び訪れたのは、約四週間後の二月二十一日であった。そこで初めて總斎は明主様からご浄霊をいただいた。この方の御用をさせていただこうという気持ちはすでに固まっていたが、この日、直接浄霊をいただいて、その思いをますます固くした。總斎はもう何も考える必要はなかった。ただ明主様のご指導を仰ぐための準備をすればよいのだ。そしてこの八日後の三月一日から、總斎は明主様の講習を受けることになった。

 その後たちまち總斎が明主様の右腕となり、三年ほどで、明主様に最も信頼される集団(五六七会)を組織したことは驚嘆に値しよう。このわずかの間に、明主様は總斎のことをなくてはならない“御用の人”として、また總斎は明主様は全人類の救い主であるとの確信を一層深めていた。こうして二人の間にはお互いに信頼しあう固い絆が生まれたのである。

 しかし、この二人の信頼関係には、導く者と導かれる者との間の緊張関係が横たわっていた。この二人は師弟関係にある。このことは当たり前のことと受け取られるかもしれない。しかし、生涯を通して總斎は、明主様を師と呼ぶこともなく、また自分が弟子としての立場にあるとは、みじんも考えてはいなかったのである。その表れとして、 
「明主様はご主人、私は小僧」 
 と言い続け、常に謙虚さを失うことはなかった。
 
「私は明主様にご面会の時には、和服に前掛けを掛けてうかがうことにしていました。このことは、はなはだ奇異な感じがするらしく、ある日、一人の信者から、『偉い方の前に出るというので、掛けている前掛けをはずすのならわかりますが、先生はどうしてまた、わざわざ前掛けを掛けて、明主様の前にお出になるのですか?』と尋ねられました。それで私は『私はみなさんの先生であるかもしれないが、明主様から見れば、ただの小憎か丁稚にすぎない。私はこの気持ちをいつまでも忘れないようにしています。前掛け姿で明主様のみ前に出るのも、この気持ちの表れなのです』と答えました」

 少しでも立場を得、地位が上がると、今まで教えを乞うてきた先輩を見下したり、対等の立場に立ったものの言いようや態度をとったりする人も多い。そういう弟子や信徒に対して、明主様にお仕えするということはどういうことなのかを、總斎自身が実践的に教えることにもなったのである。たかが前掛け一つのことなのであるが、このたった一枚の前掛けは、明主様との関係を總斎自身に、そして總斎と明主様をとりまく多くの着たちに絶えず思い起こきせる大事なよすが<ゝゝゝ>だった。

 總斎はいつも、この前掛けのことを近しい信徒に語っていた。 また、ある信徒は總斎の前掛け姿に驚いて、そのことを總斎に問うと、
「明主様ほど主人、私は小僧だから前掛け姿なんだよ」
 と言っていた。その謙虚さと明主様という師に仕える總斎の姿とは、信徒たちへの無言の諭しでもあったのだ。

 この信徒は、ご面会の折に明主様が總斎のことを、
「あなた方や他の人の浄霊力は十ワットぐらい。渋井さんはアーク灯かサーチライトのようだ。それぐらいの光の差がある」
 と評しておられたのを聞き、それにしては前掛け姿は不思議なことと思い、總斎に前述の質問をしたのである。

 当時の信徒は、ご面会のたびに明主様は總斎をたいへん褒めていたと語っている。昭和二十三年頃、明主様は、
「奇術などで不思議に思うことがよくあるが、あれにはタネがある。しかし、渋井さんの霊力ならいとも簡単に壁など抜けることができるんです」
 と、おっしゃったという。
「話の内容が変わっていてびっくりしました。渋井先生の霊力の高さを明主様が褒めておられたのがとても印象的でしたので今でもよく覚えています」
 と、当時の若き専従者大矢孝子は語っている。

 *1*2 当時、商店等の従業員の職階を示す言葉。現在は使われていないが一般的にこのよう
に称呼されていた。