人情の機微を応用

 そのころ(大正三年~大正十二年)、私は岡田商店の店員でしたが、なにしろ同業者との競争が激しくて、よその店にない製品をどんどん考案して売るというのが、親父(明主様)の商法でした。

 ですから、親父は、いろいろな雑誌を取り寄せて、毎日々々夢中で商品の図案を研究していました。若い店員を、ひとり鉛筆削りにかかりきりにされて研究していたほどで、やっぱり岡田商店が群を抜いていたのは、そういう親父の努力があったからです。

 商品をつくるということにだけでなく、それを売りさばくことにも、親父一流のやり方がありました。

 仮に支払いのわるいところがあったとします。親父は、『何度行っても集金が出来ないという時でも、決していやな顔をするなよ。いやな顔をすると反感をもつから、きょう都合がわるかったらまた伺います、というふうに集金しなくちゃいけない』とよく言われました。

 『自分でもよく考えてみなさい。いやな顔をしていると、金を払う方でもいやになる。何度無駄足しても、機嫌よく払ってくれるまで辛抱しなくちゃいけない』とよく教えられました。

 親父の普通の商人と違うところは、たとえば、ひとつの品物が出来上がりますと、普通の商人なら、二割とか三割とか利益をみて正札をつけるというのが常識ですが、そうではなくて、『こりゃよく出来たから、十円のところを三十円にして、売れるだけ売ってもらいたい』というような方法をとられました。反対にあまり出来の悪いものは、原価を割っても、『これはいい出来じゃない。損してでもいいから売れ』と言われました。そういうところが普通のやり方じゃなかったところです。大ざっぱなところがあり、度胸がいいんです。それが結局、いい品なら高い値段をつければ売れるという頭なんです。

 三越なんかで、五十円で置いたところ、なかなか売れない。そこで五百円に札をつけたらすぐ売れたというようなことが、そのころよくありました。値段がよければ品物もいいにちがいないと信ずる人がいるわけです。親父がそういう筆法でやったということは、結局度胸がいいということです。

 いや、そればかりでなく、値打があるものをこしらえて儲けることは、商人は大いにやらなくちゃいけません。値打のないものに、やたら厖大な値段をつけて売ることはよくないけれど、しかし、自分でこしらえたもので、自分の苦心したものには、魂がこもっていて、それだけ値打があるんですから、とにかく売れても売れなくても、それで売り出してみなくてはいけない、というやり方なんです。非常に合理的な考え方です。

 ですから、親父は、ソロバンをはじいて、何割儲けるということはしないんです。品物が出来上がると、「原価がどれだけかかりました」『そうか、よく出来たなあ』というわけで、仮に十円で出来たものなら、『とりあえず三十円で売り出してみようじゃないか』というような商法でした。

 それで、『売れるだけ売って、売れなくなったら、原価ならどこへ持って行っても処分出来るんだから』というような考え方だったのです。

 給与も、人によっていろいろ違うんです。たとえば、私の場合ですと、『はいったばかりで給与を多く望むのならば、外交をしなさい』と言われまして、『行く先様は商売人だから、この品物を黙って持っていって見せれば、こちらが説明しなくても買ってくれる。そうしてごらん』というような方法でして、『そうすれば売上歩合をきめるから、給与はわずかでも歩合が相当になる』というお話で、品物を背負っては商売をしました。

 この親父のいう歩合は、売上歩合ではないんです。売上歩合にすると、売りさえすれば歩合がふえるんですが、集金が二の次になるんです。だから、親父の場合は、現金歩合でといいますか、入金歩合なんです。そうしますと、おのずと貸しが出来ませんから、そういうやり方で私どもも働かせてもらったんです。こういう方法は、当時岡田商店だけでした。

 そうそう、私が入店した時は、二十円か三十円ぐらいの月給でしたが、その月給をきめる時にも、最初、『きみ、いくらあったら生活出来るんだ』と問われて、仮に“二十円あれば生活出来る”と言いますと、『それじゃ、二十五円やろう』といった調子で決められました。

 ですから、店員も自然、店のものをごまかそうなんて気持は起こりません。そういう筆法で、親父は店員を信用する。店員は店員で親父を信じ切っていましたから、非常にスムースに行き、あまり摩擦を起こすこともありませんでした。

 とにかく親父は、店員をとても優遇してくれました。ですからあの当時、大正三年ごろは世の中もよかったけれど、番頭の木村さんなどは、一ヵ月千円ぐらいでしたでしょう。ほかの店だったら、その五分の一でしょうけれど……。これは当時百円の月給とりは社長であったころのことです。

 それに私の場合、幸か不幸か身内であったので、『ほかの店員の手前、おまえを特に優遇するわけにはゆかないよ。むしろ他の人より冷遇するようなことになるかもしれない』と念を押されました。でも、それですら他店とくらべたら問題にならないくらいもらいました。ですから、岡田商店の店員は、みんなの羨望の的でしたし、店員もそれだけの誇りをもっていました。

 親父は、人あつかいは荒くなかったんですが、曲がったことはきらいで、不正なことというと蛇蝎のようにきらいました。

 私もいろいろな失敗をしました。たとえばここに乙の問屋がある。しかし、その乙の問屋にはそのおとくいがあって、直接出かけてもオイソレとは物を買ってくれない。そこでひとつあなたが中継ぎしてくれないかと言われたことがあったんです。

 それで、中継ぎしてやっていたのですが、金をもらったことが親父にバレちゃって、ひどく叱られてしまったのです。

 その時、親父は『むこうは、むこうの力のかぎりをつくして独立の経営をさせなくてはいかん。他力を本願とするような者は相手にしちゃいかん』とたしなめられたことがありました。そういうことは、非常にきらいな人でした。親父自身が、他力にすがるようなことを絶対しない人でした。

 それから親父は、店員が不正をしたことがわかっても、短気にクビをきることはしなかった人です。よく説得して、改心させて、末長く使うというやり方でした。

 といって、いいかげんはきらいな人です。店員が失敗したり、受けた注文を忘れたりすると大変なんです。

 催促の電話が来ますと、ご自分の前の黒板に、渡辺なら、“渡辺大問題”と書く
んです。

 それで、帰って来ますと、その男が呼びつけられて些細なことでも怒られるんです。

 ですから、商売ということについて、また、おとくいということについては、非常にやかましかったんです。

 例の旭ダイヤが当たって、日本中に大流行したことがありましたが、その時、親父は旭ダイヤの輸出を思い立ったのです。

 そのことを知って同業者も、“そんなことは冒険だから、思いとどまった方が得策だ”と忠告してくれましたが、親父は、『損得なんか問題ではない。国内でこれだけ売れるのは良い物だからだ』と、事情に明るい人を雇って輸出しました。

 不運にも、その人が向こうで騙されて、この計画は失敗に終わりましたが、その時、親父は金を送って、その人を日本へ帰らせました。

 その人は、そういういきさつから神経衰弱になって、休も弱っていましたが、親父はその失敗を少しもとがめず、『まあ、仕方がない、体が悪いんだから。店へ来て遊ぶような仕事をしながら治しなさい』と温かく迎えられました。こういうふうに、親父はいつも店員を大事に使ってくれました。

 話は別のことになりますが、親父は、映画が好きで、よく観に行かれました。しかし、この映画好きは、商売にも大いに関連があることなんです。というのは、その当時、新橋に金春館という映画館があったんですが、そこへ行くと、金春芸者といわれた新橋のきれいどころが、毎日大勢観に来ていたものです。

 ですから、親父は、映画を観ながら髪飾りの研究をしていたのです。新しいもの、新しいものを好まれた人ですから、そういうところからも、ヒントを得て来られたんでしょう。ですから、親父の映画好きは、趣味が二割、商売が八割だと思っています。

 そして、よく私どもに、『ゆうべ金春館へ行って来たが、いい髪飾りをしてい
るから、おまえたちも見に行って来なさい』などと言われたものです。それだけに、時には女の髪ばかり見ていて、案内嬢から怪しまれたこともあったようです。 とにかく、親父は商売熱心でした。当時の岡田商店といえば、日本一の折り紙をつけられていましたが、やっぱり、それなりの努力はしておられたのです。言うならば、人情の機微を百も千も知りつくした上での商法だったのです。

 しかし、手広く商売をされていた時代でも、経済的にお困りになったということももちろんあります。これは、ご自分の生活でお困りになるのではなく、商売上でいろいろ困られたということです。

 というのは、親父は商売上の諸経費の支払いとか、職人の手間などに対しては、無理をしても金を延ばさないようにするのを主義とされていたからです。

 それは支配人が全部担当していましたが、『人には絶対迷惑をかけない』というのが親父の出航であり、商売のモットーでした。