昭和二十二(一九四七)年十一月十一日、この日、宝山荘で宗教法人「日本観音教団」の発会式が盛大に行なわれた。「日本浄化療法普及会」を解散し、新たに「世界協和会」の名をもって発足。その後、さらに本来の宗教形態に戻すために教団を設立し、この年の八月三十日、宗教法人の認可を受けたのである。「日本浄化療法普及会」は九ヵ月でその役割を終えた。人間の体の患部を治療するのみならず、その深奥にあるものをも癒す明主様のみ力が、ようやく宗教性を帯びた本来の宗教として堂々と語られる時代がやってきたのである。「日本観音教団は顧問に明主様を、そして主管者(管長)には總斎を推戴した。總斎はこの場合も諸先輩を飛び越しての就任である。
これに関連することだが、昭和二十二年には、明主様からそれまでの「總太郎」「總斎」という名前に加えて、「總吉」という名前を賜わっている。ちょうど「日本観音教団」ができ、總斎が管長に就任した時期であった。この人事は明主様の強い推挙があって実現したものであったが、これまでの各自の組織を初めて統合した、「日本観音教団」の管長に就任した總斎に対して当然諸先輩の嫉妬<しつと>があった。その状況下での教団運営の困難さを見越して、明主様は總吉という名を總斎に贈ったといわれている。「總吉」とは「総べて吉」という意味であるが、さらに、明主様のお名前から一字「吉」を頂戴するという理由もある。もうこれに勝る名前はないであろう。
また「日本観音教団」の発会式に際して、明主様は次のような祝辞を寄せておられる。
日本観音教団発会式祝辞
顧みれば昭和九年十月私は大日本観音会なる名称の下に、観音運動を始め、その目的は病貧争絶無の世界をつくるというにある。然るに其頃の当局の方針としては、類似宗教を無差別的に弾圧の方針であったから、当大日本観音会もそれに漏れず、徹底的の弾圧をされたのである。従而、爾来全然宗教から離れ、治療専門によって発展しつつ今日に至った事は、諸君の知る通りである。之も皆応身弥勒である観音の働きによる事であって、そこに妙味津々たるものがある。茲に天運循環観音の力徳を発揮し、妙智を揮う天の時が来たので、実に観音妙智力である。
(『東方之光』下巻)
また、總斎も「日本観音教団」の設立の意義に関して、発会一年後の昭和二十三年十二月一日に発行された機関誌『地上天国』創刊号に次のような一文を寄せている。機関誌創刊の経緯を明主様のこれまでのご活躍を振り返るかたちで、總斎が整理を行なったものである。少々長い文章であるが、今日残されている總斎の唯一の公的文書であるので全文を引用したい。
過去を顧みて
前日本観音教団管長
澁井總吉 日本五六七教会会長
昨年十一月十一日、日本観音教団発会式を挙行して早くも一年、ここに機関誌『地上天国』を発刊するに至った。御承知の如く顧問大先生には昭和九年大日本観音会なる宗教形式を以て、東京で救世の業をはじめられたのであるが、いよいよ大発展の段階に入らんとする時に当って、たまたまある新興宗教や唯心的思想の無差別的弾圧の嵐に遇い、開教後二年も閲<けみ>せずして解散、潰滅的打撃を蒙ったのである。そして顧問大先生には当局の要求のままに一切の宗教行為を廃し、雌伏二年の臥薪の間に宗教の科学化を企図、独自の療法を完成せられ、次いで民間療法として再び救いの業を創められて、崩れゆく世の蔭に隠れ、盗人の忍ぶが如く窃かに来るべき世に備えられたのである。然るに民間療法時代に於る、その余りにも卓越せる奇蹟的治病力による救命の感謝と、吾等が唯ただ人類救済の目的を以て凡ゆる時艱に堪えて挺身する赤誠との集る所、ことさらに宗教的雰囲気を醸成し、為に宗教的再起を計るとこうして弾圧を蒙る事一再ではなかった。当時の日本に於て最も自由なるべき善事を行う事の如何に至難なるかを長嘆息する事幾度であったであろう。そして吾等は常に当局の俊厳なる看守の視線を遠く近く感じつつ、療法の発展拡充の勢さえ制圧しつつ、言動に細心の注意を払い、併も尚不當な強圧の憂目に遇い翼々として九年間文字通りいばらの道を歩みつつ漸次滲潤拡充され来ったのである。
然るに有難い事に、今次終戦により言論宗教の自由を保証され、吾等は解放の喜びに勇躍、天運循環我世の春来れりの感激に浸ったのであるが、久しく圧迫下の活動に馴れたる吾等には、俄かに本来の宗教の姿に還らんとする企図も思い及ばず、荏苒<じんぜん>分散的活動形態を踏襲しつつあった処、どうしても組織化せざるを得ぬ事態に迫られまず日本淨化療法普及会を結成したが、終に本来の出発点たる宗教を以て世に臨むべしという結論に到り、ここに山転じ谷巡るの険路は豁然として眼界明るく、坦々たる洛陽への大道へ出でたるの感があった。そして宗教転換に着手してみると、凡ゆる必要な準備が宛かも既に成されある如くに、極めて好調な推移を辿り、着々その形を整え、僅々一ケ月にして公認せらるる迄に至ったのである。
そうして私が管長に推され一切の組織の衝に当らせられたのであるが、私は元来商人であって教養も乏しく、宗教組織にも全然無智で一宗の管長など予想だもせぬ運命であり、最初は殆んど五里霧中の感があったが、とにかく私としては過去の経験の上に立ち、この救の業の最も拓き易く普遍的に行渉らしむるの方針をとり組織化したのであるが、所要の人も物も期せずしてあつまり、水の渠に流るる如くに進捗し、予想以上の形態が出来上ったのである。
顧みてその奇蹟的進捗振りに吾乍ら驚嘆すると共に、その経路はすべて深甚なる神意の侭に為されており、無智なる自分は単に観音様に巧妙に操らるる生人形以外の何物でもない事を深く悟り、神慮の深遠偉大さに讃嘆久しうする次第である。
叙上の如く大日本観音会より今日の教団完成に至る推移にみる如く、あらゆる迫害や時流に些かも挑まず、時所位に応現しつついとも自然に大を成してゆく、その過程こそ観音行の真姿であり、観音力の表われなりとかんがうるのである。
これに徴して惟うも地上天国建設の事業は、誰しも一夢想事とさえ考えらるるが、この観音力を体験し、深く考察する時初めて不能事に非ず、否神の御眼にはまことに易々たる業なる事を感得し得るのである。
従来の宗教は悉く単に人心教化に止まっているが、観音教団は地上天国を実地に建設するのであってまことに空前絶後の大業である。しかしながらこれは信不信に拘わらず、吾等はその必成を信じて疑いを容れ得ない。何となればその夢実現の絶對の時が来ており、それを成就すべき絶大の力の発現を明確に把握し、天国世界の如何なるものかも、その力の本体もすべて大先生の創成せられた宗教科学によって、万人が納得し得るまでに理論付けられているからである。
顧問大先生には、宗教科学者として古来より人類が知らんとして知り得なかった神秘の扉を妙智の鍵によって開かれんとしている。人類は茲に初めて数千年来の謎は解明され、凡ゆる苦悩は根本的に解決すべき歓びに酔う時は来たのであり、吾等の感激この上もない。
そして本誌は、救世の業の一機関として、信仰者にも無信仰者にも地上天国建設の実態を把握せしめ、併せて救いの光として普く世に問配らんとするものである。
会員諸君、前述の如く民間療法に転換して久しく教義も教典も抹殺的に秘められ、吾等は唯々無形の力そのものによって病苦を祓除し、幸福人を作るという赤誠の一念に燃え、宗教に蒙昧のまま転移し、教団も未だ教典が完備する処までに到っていないが、要するに宗教活動はまず悟りが根本である。教師は先ず神仏の実体を知り、宗教的学問を修得しなくてはならぬ。その為顧問大先生は“信仰雑話”なる初等教科書を御著わし下され、今又本誌に毎回珠玉の御文章を戴ける事となった。宗教の悟りは、その極致たる真実を頂上とする山嶺の如くその高きに登る程眼界は宏く遠く及ぶ。救行の根本は愛と智である。吾等は宜しくその頂上を極める歓びと幸福を田標に不退転の精進をなすべきである。
(『地上天国』創刊号、原文を新漢字、新仮名に改める)
「日本観音教団」の本部は宝山荘におかれ、総務部、教務部、保健部、社会事業部の四部制がとられた。なお、この時点では、明主様の居住きれる箱根、熱海を各別院と称していた。また、地方組織は当初八分会とした。この時の会名をあげておく。
五六七会 会長 渋井 總斎 東京都世田谷区上野毛町一一〇
天国会 〃 中島 一斎 静岡県熱海市伊豆山西足川一三六
大和会 〃 坂井多賀男 神奈川県鎌倉市雪ノ下六六
生和会 〃 高頭 信正 東京都王子区中十条三丁目六番地
進々会 〃 荒屋 乙松 岩手県一関市地主町二五
メシヤ会(後の光宝会) 〃 木原 義彦 福岡県三潴郡大川町向島東上野六七七
木の花会(後のみのり会) 〃 内藤 らく 静岡県富士宮市城山一三六五
大成会(後の神成会) 〃 大沼 光彦 東京都世田谷区北沢三丁目一〇八六
そして、翌二十三年に
日月会(のちの明成会) 〃 小林秀二郎 神奈川県小田原市新玉二丁目二二四番地
が加わって九分会となったのである。
總斎は「日本観音数団」の主管者であると同時に「五大七会」の会長でもあった。当時の教団の全信徒の約七十パーセントは、「五六七会」の会員であった。
「日本観音教団」設立は長い間、宗教活動を制約されていた明主様が、本来の姿に立ち戻られたといえる。これに伴い、組織の再編成が行なわれたわけだが、それまでは表向き「治療」と呼ばれていた浄霊は「お浄め」に、そしてすぐ今のように「浄霊」と呼ばれるようになり、「お守り」は「光」「光明」「大光明」の三種となった。また昭和二十三年一月から『善言讃詞』が奏上され、「御讃歌」の奉唱が行なわれることになった。そして御神体に対しては「大光明如来」を「みろくおおみかみ」の御神名で唱えるようになった。 こうして、民間療術の一つである指圧療法から宗教集団へと本来あるべき形に戻ったのだが、これがかえって一部の浄化療法普及会の会員の不安を招くことにもなった。宗教としてではなく、優れた施術療法として浄霊を評価していた者にとっては、宗教とかかわることに抵抗があったのかもしれない。この時、多くの人びとが脱会していった。しかし、同時に「日本観音教団」への入信者も爆発的に増えていった。とくに總斎が会長である「五六七会」の発展は凄まじいばかりであった。