戦時下、思想統制の名のもとに、明主様は要注意人物、危険分子として執拗に警察などから監視されていた。宝山荘ではもちろんのこと、東京から箱根、熱海と転居すると、地元警察が早々に内偵を始めた。明主様はそういった警察の監視のもとにあっても、いつもと変わることなく淡々としておられた。相手が内偵者であると判っていてむ、いつもと変わらずに話を聞かせたり、浄霊もされた。何事も包み隠さぬ明主様の対応に、警察関係者もお人柄に魅かれ、好感をいだく者が出てきた。とはいえ、すべての者がそうであったわけではないので、明主様もできるだけ当局を刺激することは避けておられたのはいうまでもない。このような対応はまた總斎においても同様であった。明主様の代わりに宝山荘を任された總斎もその辺りのことにぬかりはなかった。
こうして昭和二十年八月十五日の終戦を、明主様は箱根の神山荘で、總斎は岐阜県美濃町の講習会で迎えたのである。
昭和二十年十二月には「宗教法人令」が施行された。「宗教法人令」では一定の要件さえ満たすことができればこれを宗教法人として認めるという、いわゆる準則主義がとられた。これによって敗戦直後、さまざまな新宗教が生まれてくる。ただ「皇道治教」のように、宗教法人の所得税・法人税の非課税制を悪用し、脱税目的で宗教法人を設立する者も出てきた。そのため昭和二十六年に、法律の内容を細かく規定した「宗教法人法」が施行されることになる。脱税目的の宗教法人の出現には社会的に大きな批判の声も上がっていた。こういった背景が、のちに本教を襲った法難の遠因の一つになっているとも考えられる。
明主様は、これまで指圧療法の名前で行なわれていた療術行為を、徐々に宗教教団の活動として位置づけていったが、宗教法人としての組織体制を整えるほどには、まだまだ機は熟していないと見ておられたようであった。まず昭和二十二(一九四七)年二月十一日、「日本浄化療法普及会」を結成することとし、これまでの組織の一本化を図った。
従来の体制は、特に許された弟子の姓を冠した○○式指圧療法──總斎の場合は「渋井式指圧浄化療法」──の、かなり個別的な活動であった。それを組織化し、教祖・岡田茂吉がこの普及会の会長に就任し、弟子の中から選ばれた總斎が副会長の席を占めることになったのである。
「日本浄化療法普及会」の発展は目を見張るものがあった。全国各地で講習会が開かれ、参加者が会場に入り切れない場合も多かったと伝えられる。一村挙げて信徒となった例もあった。明主様の浄霊があちらこちらで奇蹟を生み、それが噂となってまた人を呼んだのである。しかし、普及会の活動を快く思わない者が、普及会に医師法違反の疑いがあるとして警察に通報し新聞を賑わせることもあった。しかし、これらの干渉がかえって世間の関心を呼び、「日本浄化療法普及会」はますます発展した。
總斎の行なう浄霊はあちこちで奇蹟を生んだ。總斎の活動は、「日本浄化療法普及会」を大きく成長させていったのである。