岡田先生との初対面は、昭和十八年の秋か十九年の春ごろだったと思います。
そのころ、私は表向きは写真家ですが、秘密の肩書は横須賀憲兵隊三島分屯所熱海分隊という長いもので、私服の憲兵隊員であったわけです。
岡田先生に会ったのも、そういう公務の上からでした。先生はすでに大本を脱退していましたが、その解体を図っていた私たちは、まだ先生も何かつながりをもっているのかも知れないというので、それとなく内偵していたときです。
しかし、こういうことを続けているうちに、俗にミイラとりがミイラになったとでもいうのでしょうか、私は先生のファンになってしまったのでした。
ひと口に言えば、先生は、たしかにわれわれ一般の人間ではなかったことは事実で、不思議な先生でした。私が先生の身辺調査のために家を出ると、先生はもう“あの男が自分のところにやって来るな”とわかったそうです。ものを書いていても、筆がピタリととまるのだとも言っていました。
岡田先生という人は、いわゆる白紙というか、われわれ凡人とはちがっていました。うまく言えませんが、無我の境で、自分のいのちの続くかぎり、世のため人のために尽くすことばかり念じていた人でしょう。そういう人だから、あれだけのことが出来たのだと思います。
お世辞もなければ、ごまかそうという心もなく、生まれたそのままの人でした。だれが行っても、何をする時も、常にそのような人でした。
白紙なんです。無垢なんです。そして、神経質なところと、神経なんてあるのかなあ、と思えるようなところと、両面がありました。ちょっと類のない人です。胆っ玉が太いかと思えば、針のさきのような鋭いところもあって、そして一般の人と行動をともにするときは、うまいものはうまい、まずいものはまずい、と普通の人になり切っていました。
欲もトクもない、生まれたままの天衣無縫のものをもっている人──そういう感じを私はもっていました。