教会、支部などで、御教書研鑚<みおしえけんさん>ということをやっておりますが、これは、たいへん結構です。しかし、研鑚という名前に紛<まぎ>らわれまして、教義的に研鑚をするというふうに、取っていられる人もあるようですが、そうではありません。
教義の研鑚ということになれば、地方々々で勝手<かって>な解釈が出て、教団はバラバラになってしまいます。
ですから、研鑚という言葉を、私は研修<けんしゅう>といった方がいいのではないかと思っております。研究して、身を修<おさ>めるということになれば、一番適当な言葉ではないかと思うのです。では、御教えの勉強は、何が目的であるかといいますと、御教えをいかに実行し、奉仕するかということでありまして、そういう意味で御教えを勉強すべきであります。これならば、すぐ生<い>きてご奉仕の役に立つ、実行の役に立つのであります。
本来、教義、教諭<きょうろん>というものは、短日<たんじつ>の間にできるものではございませんで、まず私の代から次の代までかかって、ゆっくりこしらえあげていかねばならないのであります。
現段階においては、みなさんの方では御教書をそのまま拝読<はいどく>するということが、一番いいのです。
明主様がいらしたじぶんにも、私どもは毎日碧雲荘<へきうんそう>で御教書を、ただそのままに拝読させていただいたわけです。また、お側<そば>の奉仕者は、御用が終りますと、ご浄霊をしたり、御教書の拝読を一時間ぐらいしていましたが、それは非常にいいのであります。ぜひそういうことはやっていただきたいと思います。
御教えの拝読は、目からの浄霊、耳からの浄霊でありますから、どこまでもそのままいただくということが一番いいのであります。そうしておりますと、自分の器<うつわ>しだいに、そのときそのときに理解ができるのであります。
そして、自分の行動に対しても、その器で、そのときにしたがって、理解が自分にひらめいて来る。これはこういう意味であるから、こういうふうにさせていただこうということで、また自分の器が向上<こうじょう>いたしますと、より一層理解<いっそうりかい>ができて来るというふうに、御教書は生き物でありますから、みなさまの身魂<みたま>に応じて、いくらでもその理解の程度<ていど>が拡がっていくわけであります。