昭和二十三年か四年か忘れましたが、東京銀座七丁目の黒田陶苑の画廊で「色紙短冊展」が開かれ、私も一茶の短冊を出品しましたが、その展覧会場で初めて岡田さんにお会いしました。
私の出した短冊は、“名月をとってくれろと泣く子かな”の句で、私は陶苑の黒田さんに、「これは私の大切にしているものだから、非売品にしてほしい」と申し出ていました。黒田さんは、これを特に床の間に飾ってくれました。
その第一日のおひる少し前に陶苑へ行きますと、「さっき“お光さん”が来て、どうしてもこの一茶の短冊がほしいと言われます」という話なのです。
そこで私は、「これは絶対にいけない。売ることは出来ない」と強く答えました。
しかし、相手は、「ほかならぬ岡田さんだからあげてもらいたい」と言う。
私は少し腹を立てて、「それでは話が違うではないか」と言い切りました。
そこへ岡田さん夫妻が、中食をとってまた画廊に来られて、『でも、なんとかして譲っていただけないでしょうか』と切なるお頼みなのです。
私も弱りましたが、岡田さんは非常なご執心で、『句もいい。どうしてもほしい』とおっしゃる。
その岡田さんという人を見ると、どこか憂鬱な影が漂よっている。そして、静かな調子で言われるんです。それでいて、執拗なところがあるんです。この憂鬱そうな影というのを少し説明すると、それは肉体の病気とか疲れとかではなく、教主として、泣く子をたくさん持っている──そのご自分の心の影といったらいいてしょう。
そのいろいろの苦労が、自然に表情に出ていたのではないでしょうか。衆生は、明月をとってくれろとせがんでいる。岡田さんは、そういう子どもたちの親なのだなあ……と、その時も私は思いました。
そういうわけで、普通なら絶対に手”あの月をとってくれろ”と泣いている信徒の上にすわっているのだ。──そういうご自分を考えていられたのではないかと思うのてす。泣いてせがんでいる大衆の上にいる自分──それなんだろうと思うのです。 ともあれ、岡田さんは、美術品を、骨董としてではなく、人間生活の教材として、内容的にも生かして使われたのです。一茶の短冊も、この意味で強く心を動かされたのでしょう。私はつねづね、現代の宗教は生活宗教でなくてはだめだと考えていますが、宗教それによって万人によい生活をさせること、換言すれば、立派な人つくりをすること、それがほんとうの宗教というものです。
といっても、その“生活”のちゃんとした型を手本として見せなければ、大衆は何がなんだかわからなくなります。 そういう“生活の手本”が、とりもなおさず、“岡田教祖“──そういうことになるのでしょう。そして、その上に、教材としての美術品をもって来る。岡田さんは、いいところに目をつけたと思います。
おわりに、同じ陶苑の黒田さんの世話で、私の持っていた川合玉堂さんの「五風十雨」という十二枚の絵も、いまでは箱根美術館に行っています。