めばえた信仰の芽を摘まぬよう育て導く

 信仰に入ると、つごうよくいくことになる場合が多いのですが、なかには反対に、入信以前は何ごともなかったのに入信した途端<とたん>、いろいろな難<むず>かしいことが重<かさ>なってくる場合も稀<まれ>にはあります。それは一種のお試<ため>しか、または、いままで身魂に背負<せお>っていた重荷を、早急に取り払<はら>ってしまわねばならぬ必要あってか、深い理由はわかりませんが、とにかく一度は沈澱<ちんでん>しておった汚<きた>ないものを、洗い流されるわけで、そこで、いろいろの苦しみが起こってくるのであります。しかし、それを辛抱<しんぼう>することによって浄化され、全く見違えるように更生<こうせい>した器<うつわ>に、神徳を満たしてくださるのであります。

 この消息がわかっておらぬと、信仰したために、かえって悪くなったなどといって、不足<そく>をいい、せっかく投げかけてくださった救いのお綱を、自ら振<みずかふ>りきって逃げ出していくという、詰<つ>まらぬことにもなるのであります。そんなことのないように、入信者のよき伴侶<はんりよ>となって力をつけ、慰め励<なぐさはげ>まし、せっかくめばえた信仰の芽<め>を摘<つ>みとられぬよう、お互いに育てていくことが大切であります。お救いの綱のかかった人びとにおかげを落とさせることは、誠が足<まことた>らぬからであって、これでは、神様に相済<あいす>まぬことになるのであります。

 また、一軒の家でひとりが正しい信仰に入ろうとするときには、必ず家族のだれかか、親戚<しんせき>の人かが、反対霊に使われ、妨害を試<ぼうがいこころ>みることがありますから、このこともあらかじめ注意をしておかねばならないのであります。