まれにみる精力家

 私が初めて明主様に対面したのは、昭和二十六年三月下旬でした。それは春のお祭の時で、私は奉納演芸として、“宮本武蔵”を一席弁じました。

 舞台の前に特別の席があって、そこに頭の白い人が、奥さまとおぼしき方とふたりで坐していられました。その頭の白い人が、言うまでもなく明主様でした。聞いていられる明主様と、演じている私の視線とは、二度か三度、チラリチラリと出会いました。ですから、この時が初対面といってもよろしい。

 演芸会の終わった後で、私は碧雲荘に招かれ、その応接室で初めて挨拶の言葉を交わしました。そこで、ほんとうの初対面はこちらであるということにもなります。

 食堂でご馳走になりながら、いろいろと美術の話が出ました。
 『シナの宋元時代の絵、九百年から千年前の絵ですがね。それに霊がありますからね。墨絵の名人の牧渓、梁楷のものなんか見てると、なんとも言えず惹きつけられる。現代の人のにはなんにもない。ですから宋元ものを珍重するということは理屈がありますからね。わたしは二、三日前に博物館へ行って宗達、光琳の展覧会を観た
が、あれを観てると、もうなんとも言えないんですよ』と明主様はいかにも感に堪えないふうに言われました。
それから話はマチスからピカソにおよんで、絵の話はつきるところなしでした。

 この食堂には、梅原龍三郎描く“薔薇”の絵が掲げてありました。
 箱根美術館が出来て、拝見に行った時は、明主様みずからご案内下さいました。微に入り細をうがつ各種美術品に対する説明を伺って、私は舌を巻きました。

 二度目の美術館では、長次郎の茶碗を拝見しましたが、あとで茶室の接待をうけた時、わぎわぎその茶碗を私のために取り寄せられて、それで一服ちょうだいしたのは、この上もない味福でした。

 話は戻りますが、週刊朝日の「問答有用」で初めて明主様に問答する企画が出来てお会いする時に、明主様の方でも、従来新聞雑誌記者にお会いになっての記事が、お話の内容とは打って変わった興味本位の嘲笑的な歪曲されたものが多いので、私が専門ジャーナリストでないにしても、それに近いので、幾分警戒気味もあられたと思うのです。

 私の方でも、そうした先入観念からご面会したのですが、さて初めてお目にかかった瞬間、ピンと来ました。
“これはちがう、たいした方だ──”と。
 明主様の方でも、やっぱり『これはちがう、たいした奴だ』とお感じになられたようなんですが、はっはっはっはっ‥‥‥。

 それからずいぶん話がはずみ、その後は春秋のお祭、箱根、熱海とたびたび奉納演芸に出演させていただくたびごとに、すっかりお馴染にさせていただき、いつもご面会を楽しみにしておりました。

 明主様は宗教家としての臭いの少しもない、ものものしさとか、格好をつけるとかいうことが一切なかった人です。

 そこいらの商店の隠居と話している感じで、そして趣味の広い、宗教のことなどオクビにも出さない、そういう人です。

 通例、教祖といわれる人は、自分の昔のことは言いたがらないんです。自分は俗人とはちがっているのだというところを見せたがるものですが、明主様は洗いざらい話しました。その点でも、受ける感じがちっとも宗教家らしくない人です。

 そういう、あけすけな明主様──ご隠居さんタイプの明主様に、どうしてあれほどの信者が集まって来るのか、不思議なくらいでした。

 いつか支部長クラスの人を五十人ぐらい集めて、いろいろの質問に答えている明主様を見ました。箱根でです。実にいろいろの質問が出るのですが、ある支部長が、「こんど看板を出そうと思いますが、どのくらいの大きさのがよろしいですか」と質問すると、明主様は、『ちょうどいいくらいの大きさのがいい』と答えていました。

 全くこれ以上の適切な答えはありません。その家の大きさも、間口の広さ、高さもわからず、ただどのくらいと言っても、答えようはありません。『ちょうどいいくらいのがいい』 と笑って答えられていましたが、これは実にいい印象を受けました。

 いつ会ってみても、着流しの角帯かなんかで、袴をはいていられるところは見たことがありませんが、それであれだけの信者から仰がれていたということは、それだけで普通人ではないと言えます。

 人を惹きつける秘密──その魅力というのは、ちっとも気取りのない動作、表情、格好などが大きくものを言っていると思います。

 ですから、だれにも軽い気持で対することが出来た明主様の魅力は大きいものです。現実にあれだけの信者に仰がれると、格好をつけたがるものですが、それをしないのです。一宗の教祖として、とにかく異色ある存在だと思います。──内部からの確信があったから、あれで通せたのです。そして、それは明主様のもって生まれた資質だと思っています。

 とにかく一代にしてあの事業──地上天国の模型の建設や美術の粋を集めたという巾の広さは、たいしたものです。こういう人は、大ゲサに言えば、史上稀にみる精力家だと言えます。

 美術品の蒐集の面だけを取上げても、あれだけの短い年月に、あれだけ各方面にわたる美術品をあつめるということは、およそ世界の美術骨董史の上でも類例のはなはだ少ないものでしょう。ひとりの人間が自分の力で得た富をもって、これだけの成果をあげたということは、もしかすると空前の記録かもしれません。まさに奇蹟のようです。

 奇蹟の行なえるものは、すなわち神であります。ところで明主様は、この奇蹟を行なった後、しごく人間的なところを見せて、私をほほ笑まして下さいました。美術館がいよいよ開館される時、私の家にも立派な案内状が
来たのですが、その差出人の所に、
箱根美術館館長 岡田 茂吉
と印刷してありました。メシヤ教とも、明主とも記されていないのです。

 もちろん、これは館長自身で筆をとって原稿を書かれたものと思います。私の想像するところ、明主様は、“美術館長”という肩書がひどく満足であったのでしょう。そこに少年のような純真な感情が潜在しているのです。

 私は思うのです。明主様が遺言のようにして美術館のものとされた尾形光琳の「紅梅白梅」二曲一双屏風こそ、世界一の屏風だと。これも、もう少しでアメリカに渡ってしまうところとか、私は聞きました。

 日本の誇りを、このようにいくつとなく、日本の国土に護り続けられた功績──これだけでも常人ではやれないことです。