まことの奉仕

 奉仕にも、真<まこと>の奉仕と偽<いつわ>りの奉仕とがあります。真の奉仕とは、主神<すしん>の御目的である地上天国実現のために、分相応の行ないをし、誠をつくし、ひとりでも多く神様のご意図<いと>をわからせるために活動することであります。偽りの奉仕とは、奉仕々々と唱<とな>えは立派でありますが、そのじつ、自己愛<じこあい>から出発しておるもので、こうして御用しておけば、やがていい役がつくだろうとか、物質的にも恵まれるに違いない、といった身欲信心<みよくしんじん>から奉仕の形をしておるものであります。これは、ちょっと表面<ひようめん>から見たのではわかりません。人間は神様のように、内心まで間違いなく見通<みとお>すことはできないのでありますから、表面の行ないだけで、人の善悪正邪<ぜんあくせいじや>を決めることは無謀<むほう>であります。なぜなら、偽善者<ぎぜんしや>は内心の邪悪を巧妙<こうみよう>に隠蔽<いんぺい>して善人を装<よそお>い、悪事を遂行<すいこう>しょうとするものだからであります。しかし、すべては神様がご存じなのであって、人間はいずれとも決めようとせず、ただ、好意を持ち合っていけばよいのであります。

 また、奉仕を義務と心得<こころえ>、いやだけれどやらなくてはならないから、無理やりにやっているというのも、まだ本物ではないのであります。本物の奉仕は、神様に対する感謝と敬愛<けいあい>の念がほとばしりでて、押<お>さえようとしても、押さえようとしても押さえきれず、何かせずにおられないという、やむにやまれぬ内心の欲求<よつきゆう>に駈<か>られて、喜び勇<いさ>んですることでありますから、奉仕とは申せ、いろいろの段階があることは否<いな>めません。

 それで、肝心の心が間違っての奉仕であればご神徳がないばかりか、ご不興<ふきよう>を蒙<こうむ>るに決まっているのであります。それで、どうしても思うようにいかない、などとこぼす人がありますけれども、それをいう前に、もう一遍<いつぺん>どこか自分の奉仕精神が間違っていたのではないかと、強く反省してみることが大切でありましょう。