總斎は明主様がご希望される土地の購入はすべてしている。昭和二十三年、明主様が碧雲荘を入手された時の費用も總斎が都合した。久彌宮の別邸であったが、当時、購入代金は七百万円であった。この時は、契約時から一週間以内に現金で購入代金を納めないと、契約が反故<ほご>になってしまう厳しい条件が付されていた。明主様はその点を気遣われ、特に總斎に念押しされたという。總斎はそれに応え、わずか三日間で、代金を大きなリュックサックにつめて熱海の東山荘まで届けた。その素早い真心の奉仕に明主様はたいへん深く感動され、
「渋井さん、あなたに東山荘をあげるからここに住むように」
とおっしゃられたと当時の側近者であった金子久平は語っている。
このように明主様は当時お住まいになられていた東山荘を總斎に下賜された。總斎は二、三ヵ月の間、東山荘に居住したが、先輩の嫉妬、諸々の事情もあり明主様に返上した。
また特に咲見町道場のことは、總斎の明主様に対する心からの奉仕のあり方を知る上で興味深い。昭和二十四年のことである。咲見町道場は駅に近く熱海の中心街に位置し、前面の山を含めると数千坪の敷地であった。總斎はこの土地に将来、五六七<みろく>教の諸施設をつくる構想を持っていたが、当面は「五六七会」信徒の宿泊、休憩施設として建てることにした。しかし、当時は建築規制があり、百坪以上の大きな建築物は建てられなかった。そこで總斎は浜松の料理店を購入し、それを移築するという名目で咲見町道場を建設中であった。ところが九分九厘完成という時に、明主様がお出ましになり、
「清水町仮本部が手狭になったので、ここを面会所にしよう」
と、かねがねそのようなご構想をお持ちだったのか、そのようにおっしゃったのである。その場に居合わせた者たちは、思いがけない明主様のお申し出にみな戸惑いをみせた。ところが總斎はその明主様のお申し出を即座に快諾し、お使いいただけることをたいへん喜んだのである。明主様のお言葉を神様の思し召しとして受け止め、私心を一切捨てた總斎に、みなは感動した。もし、その建物を自分のもの、あるいは五六七<みろく>教のものと考えていたとしたら、明主様のこの申し出に対して即座に快諾することはできないだろう。
しかし、總斎は私心を捨て去っていたからこそ、快く即座にその建物を明主様の御用に供したのである。もし私心があったとしたら、それは単に建物や教団を私物として考えていたということだけではなく、明主様に対してすべてを尽くして捧げ切るという總斎の奉仕の心を破ることであり、明主様に真にお仕えしているとはいえないことになる。
總斎は洋服縫製業やさまざまな事業で成功し、莫大な財を築いたが、明主様との出会いを機にすべてを御神業推進のために捧げた。總斎自身は贅沢を戒め、銀行などの通帳はいっさい持たず、生命保険などを含めて、蓄財はまったく行なわなかった。それは總斎の家族においても同様であった。財産を残すことなく、すべての私財を御神業に捧げたのである。
總斎は自分自身が浄化で休養中であっても、心は常に明主様の許にあった。このことは總斎の側にあった奉仕者にも、手に取るように酌み取れたという。それは總斎の無言の教えであった、と当時の奉仕者は異口同音に回顧している。
總斎晩年の熱海・瑞雲郷の建設当時のことである。明主様は絶えず現場の視察にお出かけになられ建設奉仕隊の労をねぎらわれた。總斎は建設が予定より遅れがちの実状を病床にありながら察知し、心を痛めていた。これは教団に建設資金が不足しているためだ。自分が元気で健康であれば何とかできるのに、明主様にご心配をかけることは誠に申し訳ないことだと悲しみ、気にしていたのである。しかし、第一線を退いた今、急に大金を持参できるわけでもないので、この現実を憂慮し、明主様から拝受していた御書体(未表装のもの)を長持に二棹<さお>分、これは相当な枚数だったが、それを御書体献上の目録をつけて全部教団本部に献上したのである。この御書体を信徒に授与すれば、きっと資金は不足なく神様が調達くださると信じた。
總斎はどのような事情があろうとも、明主様第一、御用第一の信念に生きた人間であった。總斎の誠の尊さに、当時の奉仕者たちは感動し、教団の礎はこのようにしてつくられるのだということを、心に刻みつけた。
これらすべては神のご経綸であり、明主様が總斎に智慧と力を与え、總斎はその神意のままに御用をした
ということである。