拠点づくり・人づくり

 出張浄霊の話は、水戸だけにとどまらない。昭和十六年三月頃のことであるが、ある時、卵巣嚢腫に苦しむ主婦が宇都宮にいるので出張浄霊をしてほしい旨の依頼が舞い込んだ。患部が相当に悪化しており身動きもできない状態だという。これは、のちに宇都宮市に信愛教会を設立した篠原東代彦の妻・ミホ子の話である。

 篠原はまだ四十歳そこそこであったが、若くして食肉販売を始め、努力の結果、陸軍の御用商人にまで出世し、県内でも一、二の資産を築くにいたった。夫は、ここまで自分を支えてくれた妻の病気を是が非でも治してやりたいと思っていた。もし仮に病気が治らなくても、妻の言うことは何でも聞き、できる限りの希望は叶え、妻が満足して死を迎えるようにさせたいと念願していたのである。そうした時に、たまたま妻の妹から新宿の渋井治療所の噂を聞いて、出張浄霊の依頼連絡をとってみたという。

 これを聞いて、總斎は宇都宮に行くことにした。まわりの者も總斎の水戸通いのことがあって以来、このような出張浄霊には驚かなくなった。出張に驚く者はいなかったが、總斎の体のことを心配する者が多かった。新宿での浄霊以外にも、明主様の御用で毎日驚くほどの激務をこなしていたのである。しかし、總斎は宇都宮行きを決断した。今回の出張治療は、ただ一人の人間の命を救うばかりではなく、何かもう少し大きな、意義ある結果を招来するのではないかという予感が總斎にはあったからである。

 宇都宮へ行くのは、水戸の時と同じように、新宿・角筈の治療所で一日の浄霊が終了したあとになる。總斎が宇都宮に着いた時は、すでに夜も十二時をまわっていた。依頼の際、篠原は妻の妹から、忙しい先生なので来ていただくだけでありがたいと思わなければと言われていたが、まさかこんな時間に浄霊に来るとは思ってもみなかった。非常識な話だと思った。こんなことで妻の病気がよくなると期待したわけではなかったが、出張依頼をしたのでしかたがない。篠原は駅まで商売用のオート三輪車で迎えに出て、總斎を自宅にまで案内した。

 家に着いて、二階で寝ていた妻・ミホ子への浄霊が始まった。病人を見たとたん、總斎はこれはなかなか重症だと思ったが、次の瞬間、数日浄霊すれば治ると思った。篠原はというと、一階にいて總斎の浄霊が終わるのを待っていたが、正直いってほとんど期待はしていなかったという。ただ、できるだけのことはしてやりたいという気持ちだったのである。

 一時間はど経ったころ、二階から妻が一人で降りてきた。このところ一ヵ月ほど寝たきりで歩けなかった状態だったのに、一人で小用に階段を降りてきたのだ。篠原はびっくりして声も出なかった。医者から見放され、ただ死を待つだけと宣告されていたのが、たった一時間でこんなに恢復したとは信じられないことであった。

 總斎は、ときどき休みをとりながら一晩中、翌朝の始発列車に間に合う時刻まで患者の浄霊に専念した。やがて、總斎は時計を見て、
「明日また来ます」
 ひとこと言い残して去っていった。

 總斎の宇都宮通いが始まった。毎晩同じようにやってきては、ただ浄霊をして帰っていくのである。篠原はこの總斎の姿に感動をおぼえていた。妻も日に日に病状が恢復し、よくなっていく。それも、薄紙を一枚一枚はがすように、というのではない。急激によくなっていくのである。總斎が通い出して一週間もすると、病人は健康な者と変わりなく元気に家の中を歩くようになっていた。篠原には何が起こっているのか、さっぱり判らなかった。何かが起こって妻がよくなっているのだが、この事態をどのように考えればよいのか判断できなかったのである。

 總斎はここまで来ればもう大丈夫だと思った。總斎にとって病気を癒すことは簡単であった。しかし、この夫婦を本当に癒すのはこれからなのである。そして總斎が、
「東京にはあなたのような重病の人がいっぱいいるから、これ以上毎日こちらへ来るわけにはいかない。あなたはもう大丈夫だから、汽車に乗って、東京に出てらっしやい」
 と言うので、出張浄霊はここで終了となった。夫婦は多少の心配はあったものの、こんなにまで病気をよくしてくれた總斎に全幅の信頼をおくようになっていたので、以後はでき得る限り新宿へ浄霊に通い、四月も終わる頃には講習を受けられるまで恢復したのである。

 ミホ子は講習を受けて、これはぜひとも夫にも受けさせたいと思うようになった。こんな素晴らしい教えを自分だけのものとするにはあまりにも惜しいと思ったからである。妻の強い勧めで今度は篠原が受講するようになった。篠原は、その時の受講の様子をみてたいへん驚いた。總斎の行なう浄霊の素晴らしい力は妻を浄霊してもらってよく理解しているつもりだったが、これほどのものとは思わなかった。毎日浄霊を受けにくる人はたいへんな数である。しかも患者は帰る時にはみなよくなっているのである。篠原はこの情景を見て、驚きと同時にとても温かいものを感じ、何か目の前が明るくなったような気がしたという。

 篠原は講習を終えて宇都宮に帰る前夜、總斎に呼ばれ、
「篠原きん。この講習であなたはたいへん大きな力を授けられました。それを宇都宮に帰って一度試してごらんなさい」 
 と、勧められたのである。この時すでに篠原は、總斎の言うことなら何でも従うという気持ちになっていた。もちろん、すぐさま自分の事業を整理して専従するわけにはいかない。せいぜい仕事の合い間に近所の人びとを浄霊するぐらいしかできなかった。ところが、そうこうするうちに篠原に浄霊を求める人びとが少しずつ増えてきたのである。

 やがて、篠原の家の前には、病人を運んできたリヤカーが常時十数台も並ぶようになった。当時は病人をリヤカーで運ぶのは珍しくなかったのである。篠原の家はさながら病院のようになった。そのうち受講希望者まで出てきたので、總斎を迎えて自宅で講習会を開催することになった。結局、篠原自身が多くの人びとを信仰に導くことになったのである。以前、總斎に言われた、 
「試してごらん」 
 という言葉が、まさかこれほどの事態に発展するとは篠原は思わなかった。しかし、実は總斎にとって、この日の到来は宇都宮に行く前から判っていたのである。

 篠原は宇都宮で事業を成功させ、ひとかどの財産家にはなった。しかし妻の大病によって、金だけでは人間の幸せは得られないことを教えられ、覚らされた篠原は、ついに、
「浄霊による人助けは私がやらなければならない御用だ。これが判った以上、商売どころではない」
 と、意を決して、終戦の年の十月に家業の食肉卸業を廃業し、専従の道に入った。そして昭和二十四年五月に宇都宮に信愛教会を設立するまでになったのである。

 たった一週間の總斎の宇都宮通いが、一つの教会を生み出した。言葉を換えれば、目に見えない神様、明主様との深いつながりが總斎を通して、例えば一つの教会という、目に見える現実となったのである。まさに、最初から最後まで見えない、この関係の糸、つまり霊線が總斎にははっきりと見えていたのであった。