心の中に生きる父の姿

 昭和十九年のころのことですが、私が父(明主様)の部屋へ行くと、机の上に紙の綴ったものが置いてあるので、何気なく開いてみると、父のことが書いてあるので、「読んでもいいですか」と、きいてみました。

 すると、父は、『ああ、いいよ』というので、私は読み始めたのですが、そこには父の悪口がいっぱい並べてありました。

 これを書いたのは、そのちょっと以前に父の所で働いていた人で、非常に素行が悪くて首になったのですが、それを恨んで書いたもので、“これを投書する”とおどしの材料に使っていたようなのです。

 父は、このように自分の悪口のいっばい書いてあるものを、子供の私に平気で、『ああ、いいよ』と言って読ませたわけで、いま考えても、これはよほど自信のある人でなければできないことだと思います。普通の人だったら、あわてて隠してしまうところでしょう。

 父は美術品はもちろん、それ以外の日常の器物も、 非常に大切にしていました。

 その父が、私たちに強く注意したことは、私たちがいたずらをして器物を壊しそうな時とか、傷つけそうな時とかです。

 それでも、言うことをきかず、いたずらをして、壊したり傷つけたりしたこともありましたが、不思議と後からはきつく叱りません。ただちょっと注意するくらいでした。

 そのように一般の家庭とは逆で、普通は壊してから叱りますが、父は事前に注意するという仕方です。

 また、父が箱根にいたころ、私はアメリカ軍が放出したブルーと黄いろの五センチ巾もある縦縞のキザっぽいポロシャツを着て行ったことがありますが、父は、『やくざみたいだね』と、ちょっと皮肉まじりに、 ひと言いっただけでした。

 今日では、そんな派手なシャツも珍しくありませんが、そのころ、そういうものを着ている日本人はあまりいなかったのですから、そのように言ったのだと思いますが、父は、なんでも頭からガミカガミ叱るのではなく、やさしく判るように注意しました。

 私が星に興味をもったのは十六才のときで、父に「星座の研究がしたいから、天体望遠鏡を買ってほしい」とお願いしたことがあります。けれど、父は買ってくれませんでした。

 そこで、私はお小遣いをため、レンズだけを買って来て、自分の手で望遠鏡を作ることにしました。長いあいだ、自分なりにずいぶん苦労しましたが、ようやく出来上がったのを学校に持って行くと、先生が、「りっぱに出来たね」とほめられ、学校から、東京都主催の「学生工作展」に出品して下さいました。

 その結果、私の天体望遠鏡は特賞になりました。その展覧会場には、天皇陛下もおいでになり、私の作品をほめて下さいました。その時の写真は、いまでも大事にしています。

 そんなことから、父もやっと私の熱心さを認めてくれて、二万五千円もする本格的な新しい天体望遠鏡を買ってくれました。

 見込みがあるかどうか、はっきりしない時は、自分の手で作らせられましたが、見込みがあるということがはっきり判ったから、そういうりっぱなものを買ってくれたのでしょうか、父のやり方は実に合理的だと、いまも思っています。

 私がもっと小さいときは家も苦しく、父からほとんど、ものを買ってもらえなかったせいか、なんでも自分で作ったものですが、そんな関係で、いまでも子供の机や本箱を、自分で作るのが好きで、いわば日曜大工のひとりになってしまいました。

 こういうことは、私だけにかぎりません。父は、家族の出費に関しては、非常に細かかったのですが、公的なこと、筋の通った出費に対しては、大胆といいたいくらいに出してくれたものです。

 宝山荘時代のことですが、父が凧上げをしたことがありました。役者絵のりっぱなものでした。

 父が凧を上げる時は、井上さんが凧をもち、自分が糸をもって、ちょこちょこ走りに引っ張られるのですが、なかなかうまく上がりません。

 それでも、父は非常に熱心に、何回でも上がるまで試みられます。それは、凧の重心と糸目との均衡がとれてないためで、ちょっと糸目を直せばよくなることらしいのですが、それが判っていながら、いつまでも同じことをやっていました。結局、その凧は見事に上がりましたが、そんな点はなかなか強情で頑固といいたいような父でした。

 きびしい一面、非常に温かい父で、これも宝山荘のころの思い出ですが、食後は、父と母と私たちとみんな揃って、いつも大層賑やかなものでした。

 たとえば、ラジオから音楽が流れてくると、父はそれに合わせて、ユーモアたっぷりに拍子をとります。そして、しまいには、“みよ、東海の空あけて、旭日高く輝けば……”と、そのメロディを口ずさみながら──、まず手をうって、お茶入れの罐(かま)の上をたたき、それからその罐を逆さにして底をたたき、また罐を下ろし、横からつかんでひっくりかえし、上をたたいて元どおりにする……というような手順で、実に上手におもしろおかしく見せてくれました。これにはみんな大笑いです。

 また、日曜日には、家族みんなで銀座あたりへ行き、楽しく食事したこともあります。

 映画にも連れて行ってもらいましたが、その時のことで、ひとつだけよく覚えていることがあります。
 その時分の私は、チャンバラものが大好きでだったので、その日、父から、『タ
ーザンの映画をみよう』と言われて泣いてしまったのです。

 しかし、とうとうターザンをみることになり、私はペソをかきながら画面をみていたのですが、だんだんおもしろくなり、いつのまにかターザンに夢中になってしまいました。そして、私が洋画をみたのは、この時が最初でした。

 宝山荘では、私は両親とは離れた別の部屋で生活していましたから、父とは挨拶や食事のとき会うだけでした。ですから、日曜日というと非常に楽しみにしていました。

 というのは、日曜日には、私たち兄姉はみんな父の部屋に集まって、お小遣いをいただくのです。それは、毎週日曜日ときめられていました。

 父は、ガマ口をあけて、ひとりずつ、私は五銭、兄は二十銭、姉たちは十五銭ぐらいだったと思います。

 このように、上から年令順に、金額に差をつけてあるのですが、いま思い返してみますと、これも非常に“順”を尊ばれた父らしいやり方だと思っています。

 いまも私の心の中に生きている父の姿には、二つの面があります。たとえば、御用をしていない時、一緒にいると、父親という温かい実感がしみじみ湧いて来ます。

 しかし、御用をしている時の父に対しては、なんと言ったらいいか、自分も一般の信者になったような気持がして、近より難い尊厳さを感じました。

 私は学生時代、父や母とは遠く離れて生活していましたので、いろいろと気持の動揺がありましたが、この父に対する尊敬の念から、何事もなく今日まで来られたのだと思います。