鍛えに鍛えて行ずる人生

 人間的に見ましても、明主様は、その能力と智慧において、まことに偉大であられたことは言うまでもありませんが、その上にまた、実に努力の人であられたということを、われわれは強く認識しなければなりません。あれだけ努力をすれば、たとえ特別な能力はなくとも、立派に仕事をやり遂げられるであろうと思われるほどでありました。一度こうと心に思い決められたことは、万難を排して実行されるというふうでありました。『私は自観先生というけれど、時間にしばられているから“時間先生”だ』などと冗談をおっしゃったことも、予定したスケジュールには、一分もくるわせられずにやっていかれた、ということを表わすのでありまして、並たいていの意志の強さではなく、長年鍛えに鍛えられた努力の結果であった、と思うのであります。

 たとえば、体のコンデションを整えるために、散歩がよいと思われ、一日二時間と決められると、その通りに実行される。熱海などせまいから、たちまち歩くところがなくなって、いつも知った道ばかり。しまいには、角から何軒目は某という名前だと、表札まで暗記してしまわれて、『郵便屋にもなれるね』などと笑っておられたくらいでありました。

 私は、いつもお写真を拝する時、その強靱なるバネのような強いご意志と、鍛えに鍛えられた、行ずる人の面かげがあふれているのを拝して、うたた感なきを得ないのであります。