昭和二十四年までのことである。この頃、宝山荘では、地方からの献金を計算するのは、たいへんな手間のかかる御用の一つであった。
「五六七<みろく>会」の幹部が毎月末日に宝山荘に集まって、それぞれ地方開拓をしてきた結果を總斎に報告し、また次の一ヵ月間の總斎の出張計画の旅程を全員で協議する。そして「おひかり」「御神体」「御書体」等を特別に作った「御神体」用の袋に収めてお供して開拓布教に出かける。帰る時は信徒からの献金をリュックにつめて帰ってくるのである。会計責任者に報告書を出すものの、あまりに多いので数え切れず、また金庫にも入りきらない。そのため宝山荘の奥の障子一枚で仕切られた部屋に、リュックサックから取り出しては机の上に山と積み上げていた。何しろ五百万から六百万円、時には一千万円を超えることもあった。そのお金を整理し、百円札を五千円単位の束にして積み重ねる作業をしていくのである。この札束がまるで煉瓦のように見えた。そしてまた、それをリュックにつめて教団職員が明主様の許にお届けするという手順になる。それでいて、金勘定に間違いがなかったというのは、今のように専門家がいたわけでもなく常識的な感覚から考えると不思議な話であった。これは、喜びを持って總斎以下の奉仕者たちが、ただ一筋に明主様に対して誠を捧げ御用に勤しんでいたからではなかったか。
ある時、總斎は信徒から、
「献金はどういう心でさせていただいたらよいのでしょうか」
と質問を受けたことがあった。
「この世の中はすべて観音様(大神様)のものなんだよ。だから働いて得たものの中から必要なだけいただいたら、残りはみな神様にお返しするのが本当だろう」と答えた。これが献金させていただく心であるとすれば、總斎は明主様こそ神幽現の三界を救う主神の現身<うつそみ>と固く信じ、自らのすべてを捧げ切る固い信念を持っていたと思われる。
さて、總斎には地方の信徒から預かった献金額が報告されるだけで、手許には一円たりとも残すことはなかった。それが明主様の美術品の購入、聖地用地の購入、造営費等に充てられた。また總斎の主宰する「五六七会」の小田原別院、二十世紀社(現在の熱海駅前ビルの前身)、清水町別院、大観荘(箱根・祖霊舎)、光雲山道場(信徒宿泊施設)、咲見町道場などの施設建設や土地購入に役立てたのである。
また、当時すでに教団の信徒子弟の教育に配慮しなければならないと考えていた總斎は、小田原の普通高校を購入した。当時、経営に破綻をきたした学校法人の理事長から援助を依頼されたからである。總斎は宗教色をまったく出さず教団の将来を考え学校経営に参画した。しかし、経営も軌道に乗った頃に法難に遭遇し、実現への道半ばにしてこの教育事業は潰えた。
これらの献金は、使われた目的、用途はさまぎまであるが、それはすべて教団の発展への重要な布石であり、またその結果が今日の教団の経済的な基礎となっている。