からっとしたお人

教祖さんは、全く言行一致の方で、『山を見に行くからきみも来ないか』とおっしゃって、いまの瑞雲郷へお供して登ったことがありますが、こんなところに大きな建物──現在の救世会館ですが、そんなものが出来るもんかと、実は疑っていた私でした。

 それが、教祖さんの言われるように、ドンドン出来てゆくじゃありませんか。全く驚きました。

 よく人は言行一致ということを言いますが、これはなかなか出来ないものです。教祖さんは、文字通り実行なさる。世上でよく言う大風呂敷をひろげるなどという根のないものではなく、考えて決められたことは、サッサと実行されるのですから、たいした方です。

 そして、教祖さんは、実にカンがよかったです。それが、書画とか陶器とか金工とかという分野々々に対して、すばらしいカンをもっていられて、いわば、なんでもござれの一流のカンなのです。別の言い方をすれば、教祖さんのは、あらゆる種類の美術品に対して、スーツと拡がっているカンなのです。

 これはお若い時から美術がお好きで、そういうカンが出来上がったものでしょう。いわば、ひとつひとつの積み上げられて行った知識、眼識、そして、いわゆるカンなのです。

 それから、時間のことですが、教祖さんは他の人にも時間を厳しく守らせましたが、ご自身もこれには厳しくて、私の店へいらっしゃるにも、時間が遅れそうになると、わざわざ電話されて、『あと何時問おくれるから』と連絡して下さるのでした。それに、深い思いやりを持った方で、ある大工が教祖さんのお金を競輪に使って、大損をしてしまったというんですが、教祖さんは、それを表沙汰になさらなかったそうです。これはまねの出来ないことです。ひとつのことを、いつまでもぐずぐず言うなどということのない、からっとしたお人でした。

 いつか、教祖さんは私に、『いろいろな経験をしたが、それが全部私の中で生きている。信者がいろいろ身の上相談に来るが、そういう経験が生きているから、私はだれにも同情して話すことが出来る』とおっしゃいました。
 そうそう、美術品のことで、奥さんに相談されたことが一度だけありました。

 「あなたはそうおっしゃるが、私の方が勝ちますよ」と奥さんが言うと、教祖さんも、『なあに、負けやせんさ』というわけなんです。それは、六人の美人が描かれている浮世絵の屏風なのですが、それに対して奥さんが、「これはだめですよ」と言われる。教祖さんは、『そんなことあるもんか、どこが悪いんだ』と反駁される。

「絵が死んでいます。絵具に力がありません。美人に良さがないんです」と奥さんも負けていません。結局、その絵はお買いになりませんでしたが、教祖さんは『負けた!』とおっしゃいました。

 とにかく教祖さんを、私は清水の次郎長のような方だと思っています。普通の人とはちがっています。

 ちょっと威圧される感じでしたが、物事に対してぐずぐずしない、えらい方という印象を最初から受けました