明治末から大正初めにかけて、海外に行くことは、たいへん困難なことである。資産家や政府の高官ならいざ知らず、一般の庶民にとってはまったく実現不可能な夢であった。その夢を總斎は実現したのである。
總斎はまず、当時の状況で海外に行くにはどうしたらよいかと考えたが、すぐに兄弟親戚に相談しても無意味と悟ったに違いない。そのことは、海外から帰って初めて親兄弟たちが彼の海外渡航を知ったことでも判る。家族は長い間、總斎がどのように何の目的で海外に行ったかまったく知らなかった。しかし近年、總斎の当時の海員手帳が見つかり、船員として渡航したこともあったことがようやく判ったのである。若い頃の總斎の性格は、新しいもの、未知のことに強いあこがれと関心を抱き、かつ行動的であった。彼は洋服商という立場から、本場の洋服の研究や服地の原料である羊毛に関して勉強したかったのであろうか。それとも外国での見聞が将来自分の事業に資すると考えたのか。あるいは未知なる文化、文明への憧憬、また未来に起こるであろう社会の変化、自分に課せられる諸々のことを考えていたのかもしれない。
總斎が本当のところ何回海外に行ったのかは、一般の渡航客としても外遊しているのでよく判らない。が、推定するに、時期は明治末から大正十年頃まで、回数は三回から五回ぐらいと思われる。後年、總斎は香港、シンガポール、ジャワ、インド、オーストラリア、ニュージーランド、さらにヨーロッパについてよく話していたという。特にニュージーランドは住むにはたいへんよく人情も厚いので、将来は別荘を持ちたいと酒を飲み機嫌のよい時などに語っていた。話の内容は主に東南アジアであったが、船員であったので一ヵ所に長く滞在していたようではなかった。また總斎は、よく明主様に東南アジアの風俗や人情、ヨーロッパの気候風土のことを話していたという。
一航海にどのぐらいの日数がかかったかは定かではない。しかし、一度出かけると一年以上は家を留守にして帰らなかったという。特に二回目か三回目は、インドに長期滞在していたようである。一度はマラリアにかかり、半死半生の状態で帰国したこともあると伝えられている。總斎は機嫌のよい時、家族には海外各地の風物や航海について詳しく話をしていたようだが、不思議にインドについての話はしなかったという。家族のみならず兄弟や親戚にも話をしていない。おそらく總斎は、インドでたいへんな苦難を体験したのではないか。インド旅行は、後年における總斎の宗教的修行とともに、特に瞑想などによって霊的能力を培っていたのではないかと思われる。
總斎は若い頃、国内各地にもたびたび旅をした。總斎が一時下宿をしていた伯母の家に伝わっている話に、次のようなものがある。
總斎は近所に出向くような恰好で出かけ、そのまま帰って来ない。家の者はみな心配してほうぼう探すが、行方が杳<よう>として判らない。そのうち總斎はひょっこり帰ってくる。その間、一週間から数ヵ月、特に長い時は一年にも二年にもわたることもあった。長い期間の場合は海外旅行も含まれたであろうが、一方、總斎が日本各地の風物にも詳しかったことをみると、この間、海外・国内にかかわらずさまざまな場所に出かけていたと推察される。そして、これらの旅はそのまま總斎の修行の時であったと思われる。天賦の霊的能力を持つ總斎でも、やはり自己錬磨を怠らず厳しい修行を行なっていたのである。
このようなことがあった。これは現在唯一健在の当時の洋服店店員菊地茂雄のことである。
菊地と總斎の巡り合わせも神のご意志か、總斎が何の目的か判らないが伊豆の八丈島に立ち寄った時、浜辺で土地の子供たちが何か工作をしていた。そのうちの一人の手先がたいへん器用で、他の子供たちより抜きん出ているのを見、さっそくその子供の家を訪ね、自らの経営する洋服店の店員として、その日のうちに雇い入れることを決めた。それが菊地であった。菊地はのちに、明主様の洋服の縫製をすべて任されることになった。ここにも總斎の眼力の優秀さを見ることができよう。
その菊地は、總斎の不思議な予知能力の例として次のように話している。
ある日、店を休んで店員全員で浅草に遊びに行くことになっていた。当時は店の休みは毎週日曜ということはなく、盆・正月だけの時代であった。店員全員が楽しみにしていた前日の夜、總斎は急に浅草に遊びに行くのを中止させた。さすがに店員も怒り、食ってかかった、「理由を聞かせてほしい」と。總斎は理由は言わず絶対に駄目だと言う。そのため楽しみにしていた年少の子などは泣き出した。そこで折衷案として、總斎は午後ならよいということにした。その日とは大正十二年の関東大震災の日であった。正午に地震が起き、店員たちは休みどころではなく、救助やら焚き出しやらでたいへんなことになった。この日を予見した訳ではないだろうが、店にはいつも三十俵ほどの米を備蓄していた。浅草行きを止められたことで、その結果、店員たちは「旦那のお蔭で命拾いをした」と語り合い、それから旦那の言うことは何でも聞くようになったという。
總斎は船員をやめてから熱心に商売に励み、資産を増やしていった。日本橋、神田など、都内各所に大内洋服店の支店を作り、その他家作などの不動産をあちこちに買っていた。昭和十年頃には支店数は十軒近くになり、家作は現在判明しているものだけでも新宿、杉並など山の手の一等地の数ヵ所に四、五十軒を所有し、そのうち大部分が商店であった。その他に東京郊外生田に数千坪の土地を持っていた。この生田の土地は、すでに別荘を建てるべく木材も用意し庭木も整備されていた。
しかし、總斎は明主様に出会って、これらの財産すべてを惜しげもなく御用に使っている。彼にとって、明主様に出会うまでの前半生は、後半生に明主様に仕え御神業活動に携わる準備期間だった。人間として真の生き方を求めていた總斎は、明主様に出会ってそれまで蓄積していたものをすべて費やしたのだが、これは目に見える財産ばかりではない。自らの持てるあらゆる力、すなわち人を感動させる力、人を動かす力、人を組織する力、明主様のみ教えを人に伝える力、そして霊的な力のすべてを明主様のために駆使したのだ。
渋井總斎という逸材を得て、世界救世教は今日のような大教団に成長する礎を築いた。彼が教団に捧げたのは、献金や奉仕だけではない。まず總斎という存在そのものが教団の巨大な財産となったのである。
では、渋井總斎とは一体どんな人物だったのだろうか。