岡田さんは、たいそう人の面倒をよく見られるのだそうで、信州(長野県)の姉からよく聞かされましたが、信州須坂(明主様母堂の出身地)では、岡田さんのご成功が有名になって、みんな須坂から岡田商店めがけてご奉公に上がったものだそうです。それで、店員や女中など、ほとんど信州人ばかりでしたようです。
私どもが、ご近所でおつきあいを始めましたころ、奥さま(二代様)とのご婚約が成立しました。
そのころは、丸髷が流行して、岡田さんはさかん櫛笄の下絵をご自分で描いておられましたが、おもらいになる奥さまは絵ごころがおありになるらしく、岡田さんも、『絵が出来るから結婚するんですよ』 と言っておられました。
私が婚礼のお祝いをお届けに伺いましたとき、畳巾ぐらいの台五段に、隅から隅までお祝いの品々が並べられてありましたが、そのころの岡田さんのご交際の広さがわかります。兜町界隈でもめったにないほどの派手な婚礼で、そのくらい岡田さんのご事業の成功ぶりは大変なものでした。
岡田さんは、何事によらずジックリお考えになられる方でした。
あのころ(大正十年ごろ)株の上がり下がりが激しくて、株を買うにもジックリ構えられ、慎重な方でした。
しかし、一旦これと決められると勝負度胸のあられる方で、三千株、五千珠と大勝負に出られました。
宅の主人の方は買手でなく、売手の方で、一度売ることを勧めたことがあるそうですが、岡田さんは、『私の方は買手の方で』とおっしゃって断わられました。
それから一ヵ月ぐらいたってから、その株で儲けそこなわれて、『あのとき、あなたの言う通り売っておけば、いまごろは成金になっていたのに』と話しておられました。しかし、すんだことにくよくよこだわるような人ではありませんでした。
岡田さんは、商売の方では儲けられ、株の方では入れ上げられているという方でした。
その岡田さんには、よく歌舞伎の切符など買っていただきました。
そのころ、沢村宗之助の弟で長十郎という役者がいまして、私どもはそれをヒイキにしていましたが、岡田さんでは宇治龍子という、森律子と同期の女優をヒイキにしておられました。この長十郎と宇治龍子とが仲がよくて、そんな関係でお互いに切符を捌き合ったものでした。
また、宅では相撲もヒイキにしていて、時には百枚ほど持って来ましたものですから、岡田さんへ五十枚ほど持って行きました。けれど、岡田さんでは、『芝居はヒイキにしているが、相撲の方はとんとだめだ』と言っておられました。でも、三十枚ぐらいはいつも引受けて下さいました。
それから、日本橋にうまいもの屋横丁というのがありまして、そこに超一流の料理のうまい店がありましたが、そこが岡田さんのヒイキでした。
びっくりするほど贅沢なお店で、普通の人ではあまり行けない店でしたが、岡田さんはよく行かれました。とてもご夫婦仲がよくて、どこへ行かれるにもご一緒にお出かけになり、ごひいきの食べもの屋へはよく私どもも招んで下さいました。
私の方は私の方で、いい芝居がかかると、マスをとっておいて、岡田さんご夫妻をご招待させてもらいました。
そういうおつき合いをしておりました。