序文を書いたのがご縁

 昭和五年ごろのことですが、私は東京市の教育局の学校衛生技師をしていました。また一方、その東京に治療師会(指圧療法は当時まだなかったが、按摩を除く種々の治療師の団体)というのがあって、私はその顧問をしていました。

 そういう私を明主様の方でご存じでいられたのです。同じ麹町の住人ということではなく、私が京大出の若い医師でありながら、治療師の団体の顧問をしているということ――それをご存じでしたし、それに私が短歌を作っていたので、このことからも私を知っておられたと思います。しかし、私は明主様を存じ上げませんでした。

 それから幾年もたって、昭和二十三年のこと。金川文楽という人が私のところへ来て、明主様の書かれた『結核と神霊療法』という本の序文を書いてくれというのです。

 このころは、私も学校衛生技師をやめて、逓信省の診療所に勤めていましたが、その依頼を受けて、〝観音教 の治療行為は医師法違反にあらず〟という意味の序文を書きました。

 その序文をごらんになって、明主様は大変に喜ばれました。私が原稿をもってお訪ねしますと、『あなたが短歌をつくる岡田さんですね』と言われました。

 これが、私が明主様にお目にかかった最初で、それからずっとかわいがっていただきましたが、ある時(ご昇天の二年前ごろ)側近の奉仕者を通じて、明主様は私に、『現在の顕微鏡は何倍まで使えるか』とのおたずねがありました。それで、「二十万倍です」とお返事しましたが、その後、明主様は、ある日のご講話で、『現在の顕微鏡は二十万倍まで使える』と言われ、私もそれを伺っていて、とても嬉しかったことを思い出します。